満足度★★★★★
鑑賞日2019/08/27 (火) 14:00
座席1階1列
すみだパークスタジオ倉での桟敷童子公演、舞台前面には広い横幅に厳然と舞台と客席を分けるような柵めいた仕様があって、「ここから先は芝居空間です」といった強い分断感がある。(悪いと言っているわけではなく、創作空間への強い拘りだと思っている)
しかし、サンモールの横が狭い舞台でそれをやると閉塞感が際立ちダメだと思ったのだろう、今回は舞台をオープンにして、客席との連続感を打ち出した。
時として、登場人物は舞台前の段差のところで蹲り、時としてコロス風に状況を語り、遠隔の存在感を醸し出し、登場前・後の不穏な空気を湛える。最前列の席の前を小走りで通り過ぎる役者たちの存在感は、桟敷童子の舞台では新鮮だ。
狭い舞台では、従来の同時進行的な劇演出ができないところを、登場人物たちのリズムある動きを伴った語りによって補っていく。
飛べないものは、落ちることもできない。そして飛ぼうとしないものは、飛ぶことすらできない。つまり堕落しようとするものは、高邁でなければ堕落することもできず、高邁であろうとしなければ、そうあることもできない。
冒頭、登場する八雲、村瀬、中條の3人は堕落に至ることを声高々に語り、その精神を称揚する。この辺りは若者特有の自尊心に満ち、稚拙さが愛らしい。しかし実際に堕落する権利を持っていたのは誰か?まずのポイントはここ。そして、実は堕落していくのは、この3人ではなく、、、というのが、この物語の肝。