満足度★★★★★
鑑賞日2019/07/13 (土) 14:00
2019.7.13㈯ PM14:00 上野ストアハウス
暑さがぶり返した曇り空の下、『ストアハウスコレクション~日韓演劇フェスティバル』を観に上野ストアハウスへと足を運ぶ。
観劇前に時間があったので、上野の西洋国立美術館で『松方コレクション展』を観てから向かった。
日本と韓国の2劇団による上演。二本で一公演の7回目になるこの日韓ストアは、韓国からは劇団新世界、日本からはDangerous Boxが魯迅の『狂人日記』を基にして両劇団がどういう切り口で、どのように魯迅の『狂人日記』に迫り、紡ぎ、観せるかを見比べるというもの。
私は、Dangerous Boxの『今日人。明日狂』が観たくて足を運んだ。
魯迅の『狂人日記』は、要約すると家族を始め自分の周りにいる人間たち全てが、自分を食べようとしているのではないかと思っている『私』によって語られる物語り。中国の食人文化から着想し、人間が人間を食うことへの恐怖感という感性的な形で捉え、尚且つ作中人物の『私』もまた被害者であると同時に、知らぬ内に人肉を食べさせられていて、既に加害者であるのではないかという追い詰められた罪の意識に貫かれ、加害者でもなく被害者でもないのは、もう、子どもしかいないのではないのか、せめて、子どもだけは加害者にも被害者にもならない者であって欲しいと『私』は願いつつ、結末には希望は見い出せず、そこはかとない絶望が残る話。
魯迅の『狂人日記』は、遥か昔に読んだような記憶だけが残っていて、内容についてはすっかり忘れた状態で観たDangerous Boxの『今日人。明日狂(きょうじん。あすくる。)』は、始まると同時に、解らない、感想を書くのが難しいと思いながら観て行く内に、膨大な言葉の掛け合いと、言葉の重なり合い、言葉遊びが猛スピードでスカッシュのボールのように飛び交い、跳ね返り、それぞれの人間と『私』が、追い詰められてゆくその合間を饒舌な言葉の海の合間に、真っ暗な夜のような、沈黙の海にただ一人落ち、漂っているような感覚と光景が、パッパッとスポットのように、フラッシュバックするように明滅した。今までのDangerous Boxとは、仄かに違う彩りを感じた。
Dangerous Boxの『今日人。明日狂』は、墨絵のような世界を感じた。墨に塗り込められて行くような、墨で描いた暗い夜の海に落ちて行くような絶望が、『私』を狂気へと追い詰め塗り込めてゆくような、皮膚に染み込むような絶望と怖さ。
原作を読んで、Dangerous Boxは原作に沿った『今日人。明日狂』になりつつも、狂っているのは周りなのか、自分なのか、外から見て狂っていると思っても、中にいる者は自分が狂っていることに気づかない、自分が狂っているとは思っていなくて、外の者が狂っていると思っている。狂気とは何か?狂人は居るのではなく、作られてゆくのではないか?
誰かが狂っていると言い、一人の人間を追い詰め狂人を作り出してしまうとしたら…。
これは、韓国の劇団新世界も、言わんとしていることのような気がする。狂人は居るのではなく、社会や環境、置かれている状況に置いて作られるものだと。狂気は、あるのではなく作られるものだと。
社会の常識は本当に常識なのか?あなたの常識は私の非常識であり、私の常識は、あなたの非常識であるかも知れない。誰かを狂っていると言う時、あなたは、私は、狂っていないといえるのだろうか?あなたは大丈夫?と言うのが、今の韓国における問題を9人の役者が○○狂人という形で観せる劇団新世界『狂人日記』の切り口。
対して、Dangerous Boxは、絶望が残る終わり方になっているが、どちらも終わり方としてはありだと思う。どちらがいい正解とかそういうのではなく、狂人日記という1つの作品を取り上げても感じ方、捉え方は観る人の数だけあり、解釈もある。日韓を観ることにより、その醍醐味が味わえた。
Dangerous Boxのラストの照明と末次祐季さんのあの追い詰められ、狂ってゆく表情に鬼気迫るものを感じ、凄まじく、石橋知泰さんの膨大な台詞でありながら、滑らか且つ何かがきちんと残るあの墨絵のような言葉の世界に溶けてゆく見事さ、そしてまだ墨絵のような暗い饒舌で寡黙な言葉の海とその海に漂う孤独と痛み、絶望の中に一縷の希望を見出したいと思う饒舌な沈黙の闇が細胞の何処かに染みついている舞台だった。
文:麻美 雪