骨と十字架 公演情報 新国立劇場「骨と十字架」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    ヒトの進化論の研究者で、かつイエズス会司祭であったテイヤール(神農直隆)を中心に、信仰と科学をめぐる議論と葛藤を描いていた。テイヤールを審問するドミニコ会道士(近藤芳正)との対立が、一番の対立軸だが、作劇上はそこが少し弱い。

    テイヤールの真面目な人格を信じているイエズス会の総長、弟子、同僚神父がテイヤールを支えている。力関係は1対4なので、どうしてもドミニコ会士の分が悪い。神による人間創造説の非科学性とあいまって、対等な対立にならないので、あまり議論に引き込まれなかった。これは少々マイナス。

    しかし、一緒に見た同僚は大変感心していた。大学がキリスト教系で「キリスト教概論」の天地創造やアダムとイブの荒唐無稽についていけなかったそうだ。「聖書の話はすべて比喩ではないですか」というセリフに、「そうだったのか。そう考えれば悩まずに済んだのに」と膝をうっていた。信仰と科学の一体化を目指すテイヤールの話に、かつて疑問を覚えたキリスト教の神とは違って、親近感を覚えていた。

    ネタバレBOX

    テイヤールは神を信じていないのではない。科学をとって聖書を捨てるなら話は簡単だが、そうではない。彼にとっての神は「人類の進化の到達点に神がいる」というように、人間の最終目標のようなもの。バチカンの、天上の超越者としての神とは全く異質である。そこが正統派カトリックから、異端扱いされるわけだが、神を信じるという点は同じ。実は、ここの議論が、キリスト教と縁の薄い日本人にはわかりにくい。

    二幕で、北京原人の化石発見後のテイヤールは、ヨーロッパに帰ったのに、なぜか寂しげで大人しい。イエズス会での教育者の椅子や、大学での教授職が提示されても、どちらも断り、「静かな祈りをしたいだけです」とひきこもる。これでは、議論があまり深まっていかず、どうしても不完全燃焼になってしまう。

    テイヤールと北京で研究仲間だった神父エミール・リサンは「テイヤールが進化論の研究を続ければ、神を否定することになる。彼は危険な存在だ」と、テイヤールを批判するようになる。教会上部だけでなく、かつての「同志」とも対立するようになったわけで、それが理由の孤独かと思った。

    が、別の見方もある。リサンの説は、実は図星で、テイヤールが自らは語らない心の内を解説していたのではないか。テイヤールはこれ以上進むと神を捨てることになることをうすうす感づいていたために、寂しさを覚え、大学の教授になることも断って、自分の信仰が崩れる手前でとどまったのではないかと。

    議論がどこか不完全燃焼で終わったように感じたのは、そのせいかもしれない。覇気をなくしたテイヤールに対し、正統派のドミニコ会士(近藤芳正)の追及も、途中で矛を収めたような格好だった。

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    2019/07/11 23:42

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