ゴドーを待ちながら 公演情報 KAAT神奈川芸術劇場「ゴドーを待ちながら」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    コミカルで騒々しい舞台。ただ古い作品なので現代の客の前ではギャグが滑ってしまう。二幕目では楽屋ネタのアドリブが増えて、笑いも増えた。
    この二人、何かを待っているというが、何も待ってなどいないのではないか。ただ暇つぶしをしているだけ。「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉があるが、それを舞台にしたところが、ベケットの歴史的功績ではないか。

    それまでの演劇は起承転結の、なんらかの筋を持っていた。フランス古典劇の三一致の法則はもち論、事件が起きて死や大団円に終わるシェイクスピア劇にしろ、最初に誰かが到着し、最後に出発するチェーホフ劇にしろ。ベケットは何も起きない劇を創始した。
    人生はすべからく、今日も明日も、10年後も20年後も、基本は何も変わらない繰り返しに過ぎないと。人間の行いはその平板な時間を埋めることで、無為の不安と恐怖を覆い隠しているのだと。それがベケットの示した人生の真実ではなかったか。

    その点で、「ゴドーさんは今日は来ません」という伝言を持ってくる少年は不要とも言える。しかし、これは未来とか、希望と呼ばれるものをの可視化するための仕掛けなのだろう。二人は暇つぶしに疲れて自殺というアイデアとも戯れるが、少年の伝言で、それもやめる。(勿論、首吊り用のロープが切れて、自殺もできない、馬鹿馬鹿しいという形になっていて、単純に少年の登場で自殺をやめるのではないが、そこには表面的な展開以上の意味がある)希望は虚妄かもしれないが、それがあるから人間はまた明日も生きていけるのだと。

    アベルとカインの名で「全人類を代表している」というセリフがある。一人では何もできないが、二人いれば、関係が生まれ(多くは上下関係。主人のポゾーと奴隷のラッキーが示している。ウラとエスの二人も、ウラ上位は歴然としている)、暇つぶしができ、全人類に匹敵できるという暗喩である。

    「ゴドー」は名前だけは有名で、梗概を聞けばそれでわかった気になる芝居である。最近、河合祥一郎の翻訳で戯曲も読んだ。それでも、つまらない芝居と思ったのが正直なところだった。今回、初めて舞台を見たが、事前には思いもしないほど、刺激を受けた。舞台を見ている時より、終わった後の心の中の波紋が長く続く舞台だった。

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    2019/06/18 16:58

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