カケコミウッタエ 公演情報 日本のラジオ「カケコミウッタエ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    日本のラジオ観劇も何気に回を重ねる中、間口の広いステージで観る新鮮さがあった。そして舞台のユニークな使われ方も印象的ではあったが、印象としての最大は屋代氏による翻案、原作『駈込み訴え』との絶妙な距離のとり方だろうか。文句を先に言えば、名瀬役の俳優の台詞が早口と標準語でない抑揚で聞き取れず、指定を誤っている(狭い劇場なら反響なく耳に届くだろう速度だったが)。そのせいばかりでないにせよ度々睡魔に襲われた、その上での以下感想。
    原作の一人称の語り手(ユダ)に重なる粕井(フジタタイセイ)と、イエスに重なる名瀬(宝保里実)の構図の捉え方が面白い。特にイエス側からの(時間を超越して未来から語るような)応答が、ユダの屈折した感情が一方的に生れたのでなく関係の相互作用があった、という視点を示すところ(もちろんフィクションではあるが)。
    「健康道場」なる宗教チックなサークルのような団体を設定し、そのメンバー数名(ひやかし会員含む)や共通の知人(独特なキャラを持つ兄弟)が交わす会話によって、健康道場やメンバーについての情報、またそれを通して人間の依存性や、宗教的側面や抗えない心情などメインテーマにどこか繋がるような視点を掘り起こす。そしてそこここにキリスト教のモチーフが鏤められている。
    ちなみに健康道場は自然(の意思)という意味に近い「おひかりさま」なる存在をキーワードに、メンバーが話をしてそれを皆が聴くという儀式のようなピアカウンセリングのような時間を共有する、言わばサークル(信者を狭い教義に閉じ込めて搾取し団体勢力拡大を目指す新興宗教とは一線を画しあくまで「よい生き方」を目指す単純で純粋な団体という設定になっている)。
    イエスに重なる名瀬は団体のリーダーでも多大な支持を集める存在でもないが、ユダである粕井は名瀬の天真爛漫さ、自由さを心中嫉妬を伴う感情で見ている。形象的には名瀬はアスペルガーや精神障害を想像させ、一見突飛だが何処か芯を穿った言動を行なう「天才肌」(見方によれば役立たずと一蹴されかねない)。その名瀬に作者は、健康道場での「話」はそれらしくアレンジした創作で、毎回メンバーを納得させる話を捻り出そうと努力した、との台詞を言わせる。だが頷くメンバーの中で粕井だけは違う反応をするのを「気にしていた」、とも語らせる。さらに名瀬は、自然を志向する健康道場で重んじられ発揮されるメンバーらの素直さを、粕井は「憎んでいるようだった」と言い、ユダなる粕井の人物像を捉えていた事を仄めかす。
    終わってみれば、宗教や聖書や運動を揶揄するスパイスを時折まぶしつつ、自由な名瀬と些事に捕われる凡人粕井の構図をあぶり出し、互いに認識しあっていたというドラマ性によって溜飲を下げる中々上出来な作品に思えた。が、記憶は歯抜け状態。買って来た台本を読み直してみる事にする。

    ネタバレBOX

    台本を読んでみたらやはり見落しは多々あり、概ね雰囲気は掴んでいたようだが若干印象は変った。場面と場面(見落し箇所含め)の繋がり(因果関係)が普通にあり、思ったほど晦渋さはなかった。
    一点、聖書の文言(を想起させる台詞)の挿入が唐突で、概ね巧く嵌ってるがいまいち効いてない箇所も。ただ全体として太宰の原作の要素を、フィクション性を下敷きに現代の卑近なケースに落し込む作業が成功しているように見えた。エピソードを補完するその他の人物も、しっかりフレームに収まっている雰囲気で。。
    原作のフィクション部分とは、パン5つと魚2匹で何千人の腹を満たした有名な逸話がユダの奔走のお陰である事や、彼のそうした献身がイエスへの個人的な思慕からであった事など。愛が転じて憎さ百倍、命を引き渡すことになったという訳だが、このイエスとユダの関係に終始する原作に加え、周辺事情をこの芝居ではドラマに織り込んでいる。
    「健康道場」に通う現代の「弱き人々」のハズい姿をイエスの弟子たちに重ねたり、名瀬が新団体を作った影響か、寂れた健康道場のリーダーをイエスに先行して福音を説いたヨハネに重ねたり(これは如何にも現代に引き付けた翻案だが)、ひやかし入会女やその妹(マリヤとマルタは唯一イエスの近親者で名が記される女性)や、名瀬のいとこだという田臥兄妹の無教育ながら筋を通す無手勝な存在が、イエスに従っただろう「弱き人々」の人物像をどこかなぞっていて、群像に見えて来る。

    聖書の当時、人を日常から離脱させる契機は厳しい社会状況と終末観にあり、「今まさにメシヤが来る」と終末を叫ぶヨハネから、「私が神だ」と説くイエスへのバトンは「人々を導く」上で不可分だったのではないか。人が腰を上げるための終末論(という言い方を敢えてするが)が、何のためであったか、現代から客観的に見れば明白。ローマの一定程度緩い支配の下で固着したシステム・・律法学者という支配階級がユダヤ教を背景に「正統性」を手にし、聖書的正しさを「説く」側に常に立って自らを批判の的となる事を交わすことのできる仕組みそのもの・・の欺瞞を暴き、人を苦しめている支配構造を壊すこと。ズバズバと言葉で暴き立てたイエスは最後に殺された。
    今日本も「壊すべき」構造を前にしているが、どこから手をつけて良いのやら皆が手をこまねいている。でもって現状肯定することで平静を保っているがそこに無理があるから逆に公然と批判を行なう人間を敵視する・・ここまで来れば支配構造もなかなか堅固なわけだが、芝居の方はこの現代がステージだ。
    「終りなき日常」を低年齢で悟ってしまう現代とは、「終末観を奪われた時代」と言えはしないか。もちろんバーチャルなレベル(映画、ゲームその他)では終末観が持て囃されるが現実は別という事になっている(というか別の現実の捉え方もあるよね~的にごまかすツールを多々与えられている)。従って、その反動として終末観の極致へ走ったオウム的な動きが生じたのも自然な事ではある。さて芝居での団体リーダー・茅場は変えようのない社会の片隅で、心を整え生き易さを見出そうという事をやっているが、まことに「意識を変えること」の総和が世の中を変える、これは紛う方なき事実。要は、どの方向に皆がほぼ一致して変わるのが良いか・・言論の戦いのそこが要となっている以上、「団体」なるものも意図するしないにかかわらず自ずと言論闘争、団体単位では勢力争いの土俵に乗ってしまっているという事がある。本来的には、より勝る主張が人々を感化し得るのだから多くの人々の意識の変革によって社会が変わる・・そのための言論であるという公式が成り立つはずだが、現代日本の場合、まず「変わらない」という事実があり、その上でやはり主張を行なおうと思う・・すると自らの主張に賛同を得ることは嬉しく減ることは寂しい、という感情の問題が持ち上がる。嫉妬が起きる。魅力的な言論・勝利に近そうな言論、ないしは集団に人は集まり女性も集まり、男はそこで良い地位を占めたいと欲する・・。そこでリーダーと成員の感情のもつれが(この話のように)生じたりもする。
    だがこれは本来の目的であった物理的な変革が、脇にやられた結果である。変わらない現実を半ば知りながら、「勢力図」だけを意識し、せいぜい団体を引っ張るだけが目的化してしまった時、連合赤軍事件のようなものが起きる。事件にならないそうした現象は社会の成員全ての回りで起きている。
    勢力図や「敵を倒したい」欲求などとは離れた次元で、正論は何かを見極めたい「動機」を持つにはどうすれば良いのだろうか、、。
    本当の悲惨を直視するしかない、というのが私の現在の結論なのであるが。しかし自分を省みても意識の改革などというものを他人に期待する程虚しいものはない、位に考えておくのが丁度良いとは思っている。それでもおかしいものはおかしいと、言える勇気を常に問われている自覚は持ち続けていたいものだ。(一体何の話だ)

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    2019/06/08 08:25

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