ポンギや麻布10番、狸穴辺りの変にバタ臭い「洒落た」街とは異なる雰囲気が良い。ちょっと、ミュンヘン空港の合理的な建築のお洒落に宇宙的なアモルフをプラスしたような建築も見える。自分は、無論、野性的な大自然も大好きではあるが、このようなコスモポタニックな街も好きである。会場は、このような街に、人間の体の一部を基準に建物の大きさを測るイマージュを持たせることで、巨大建築への違和感を相殺する建築様式として知られるレンガ造りを敢えてイメージした外装の新宿文化センター。1階正面にある彫刻も傑作、左手の絵も、近海日本画をイメージさせる非常に質の高い作品である。会場の3Fの作品も良い。唯、用いられたホールは演劇専用ホールでは無く観客席が完全フラットな為、椅子は半身ずらしで並べられて配慮は見えるものの、矢張り板下部の見切れは、後列に座る観客には避けられない。ちゃんと半身ずらしにしている所から考えても予算が許せば、観客席に段差を設けることは考えたであろうが、この良心的料金設定ではそれも難しかろう。 ところで、お待ちかねか否か定かではないが、本題に入ろう。ベケットのWaiting for Godotも今作も設定されるテーゼは空虚と言って差し支えあるまい。牽強付会と謂われるのは仕方ないにしても。 であれば、演者、演出家が、この脚本をどう解釈し、どう意味付けるも勝手である。従って観客がどう解釈するかも勝手なのだ。自分は、原作が持つというか提起した“空虚”と恰も4次元列車“銀河鉄道”であるかのようなこの列車に注目した。銀河鉄道は、死と生を同時に載せることのできる不可思議な鉄道であった。ということは、死と死も、生と生もまた同時に載せ得る鉄道ということだろう。今作では、死に近い生を載せていると解釈した。即ち生きながらの死である。インスタグラファーを目指す女とユキチにしても、恐らくは3.11を契機としたF1人災を、その津波被害の中で生き延び、自らを仲間を殺した殺人者として認識したカラシマと8年前に被災地から引っ越したものの、そして一応名門とされる大学には受かったものの看板学部の看板学科ではなく司法試験合格者数でも大したことは無い学科に受かり、故郷を喪失したままの、それでも明示的には未来が自分にはあると信じている若者の根拠の無い自信が崩れ去りつつあるキヨハシらの必然的邂逅を、恰も不条理という形で描くことしかできない、現在我々が暮らすこの地域のバカバカしさ茶番を論ってみせた、というべきか。面白い!