福島三部作 第一部「1961年:夜に昇る太陽」 公演情報 DULL-COLORED POP「福島三部作 第一部「1961年:夜に昇る太陽」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    やっと、観劇。なんだろう。観ていて、どこか、もやもやした悲しさのような、もどかしさのような、「未来はこうなってしまった」と声にならない声で心の中で何度も呟いてしまった。
    あの時代の人々からしたら観劇している私は未来の人間なのか。





    「故郷が無くなる」という言葉が今作で出てきた。
    青年が都会で生きていきたいと決心して、家族へ伝える事に関して。
    そして、この言葉は50年後、もっと、大きな意味を持って、「現実」の言葉となってしまった。反芻すれば、するほどぞくっとする谷 賢一さんのホン。


    家で、フライヤー整理して「ああ、成る程。」あの場面、好きだなと感じたんだった。
    「未来」を語る忠の台詞が蘇る。「何もない」自分たちの故郷を、明るい未来の故郷にしようと
    小さな、でも、夢をもって語っていた場面。
    桜の花は咲いたのだろうか。
    咲いたとしても、桜並木の下を歩くことがもう、出来ない。
    だれもが、未来を見ていたはず。


    私でさえ、生まれる前の時代の話。1961年。
    あの時、それぞれ自分の信じる正義を掲げて、「前」に進もうとしていた。
    結果としての、福島を誰も想像すらしてない。
    誰しもが、想像できないと思う。
    誰だって、もっと、より良い未来を生きたいと思うから。


    劇中のパワーバランスがとても、明確だった。
    「家族」という社会のバランスや
    「権力」という世界のバランス、「企業」や、「政治」、「国家」といった
    それぞれの点と、点のつながりの中でのパワーバランスが
    いやらしいほど、明確に伝わる。


    「昔」の話と括れず、

    劇中の様々な台詞が『1961年』と『2011年』そして、『2018年』を結びつけるような、それぞれに通じる台詞のように語られる。



    印象に残った台詞で「国は福島を助けない」という言葉。

    1961年においても、2018年においても、この台詞は重い。



    起こった「悪」の事柄に、だれが責任を持つのだろうか。
    昔も、今も、大きな組織であればあるほど、逃げるような気がした。


    「悲しみ」は勿論感じる。
    でも、その「悲しみ」は部外者である私にはリアルでは無い。
    では、何故、もやもやと沸き起こるものがあるのか。


    「怒り」のような、でも、その「怒り」に対して
    何も行動しない自分の「諦め」にもやもやするのだろうか。
    私は知っている。
    2011年3月11日を。
    でも、私は「福島」に対して、何もしてない。
    そして、「福島」を知らない。
    この公演は「福島」を知るために、必要なものなんだと感じ始めてる。


    「知る」ために、必要なんだと。

    0

    2018/12/31 19:32

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大