満足度★★★★
(立ち寄ったらえらく難解=意味不明の為推敲せり。)
風雷紡は二年振り二度目の観劇、前回は下北楽園の狭い(というよりせせこましい)空間で、物々しい歴史秘話が展開。d倉庫に移り、水を得たように空間を使い切っていた。役者もそれなりに出来る人達。
浅沼社会党委員長刺殺事件を基にしたフィクションだが、史実とフィクションの境界が不分明な所で、台詞の言葉が仮想世界を構築するためのものか、歴史事実を評したものかが分からず、引っかかる部分もあった。
60年安保の熱気さめやらぬ同年秋に起きた事件が史実、これをモデルに刺殺した少年を少女と設定を変えて主人公に据えている。
性別を変えた事で、一途に物を思う美しい少女、というキャラクターを得た。将棋ならば歩が金になったくらい「使える」。右翼少年も持っていたかも知れないナイーブな「純粋さ」は、男性をイメージするだけで「社会的」には犯罪者だという側面から逃れられないのに対し、女性とする事で「行動した女」の聖性(ジャンヌダルク)が際立ち、犯罪者の姿は背景に遠のく。その彼女に対しドラマの側が「現実」を突きつけていく、という展開になっている。
ただ芝居での主な言及は、彼女の家族関係、そして親の反対を押して入会する事となる右翼団体のこと。学校では左翼が「主流」である中で、右翼の彼女は「浮いて」いたとされるが、政治家刺殺に至る彼女の足跡は、強い意志によるものというより、十代の彼女の心模様の軌跡であった。実際「運動」とは(特に若い時期のそれは)そういった「気分」に左右されるもの。
彼女に大きく影響したものとしてこの芝居で描かれているのは、亡くなった双子の兄の存在。そして病弱な彼と一緒に作って父母に見せた、聖書劇(十字架にかかったイエスキリストの腹を槍でついたロンギヌスのくだり。もしくはそのくだりは二人だけの遊びのネタだったか・・忘れた)である。
ロンギヌスの逸話が語る罪=根源的な罪が、社会的な罪の概念と対置され、主人公が政治家を殺めた罪にも重ねられる。一般に語られる犯罪・罪についての言葉には確かに違和感がある。法を逸脱した者はワイドショーのいじりのネタにされるが、果たしてこの人らは、そして自分は、人を裁けるのだろうか、という・・。人間の本質から「行為」の意味を捉え返して、それは一体どういう「罪」なのかと問う・・「ロンギヌス」の逸話はその視点を与えるものだが、主人公が人間の本質に照らしてどうあったのか、実際よく分からない。
恋愛に似て運動も(時代の空気も手伝って)「熱に浮かされた状態」とされる一方、感性豊かで瞬発力ある若者が変革を為さずして誰が為そうか、という疑問ももたげる。(話は逸れるが..)近代日本は「上」に従順たる人材の育成には成功したが、健全な民主主義を支える自律性の発芽を促さずむしろ摘み取ってきた。戦後経済や技術を発展させた日本が現在負けを喫している遠因には、組織の硬直化・老害、つまりは既得権(前例が重視される)の維持拡大の目的を超えた高次の目的を見いだせない状態があり、「変える事」「変わる事」への恐れが「異論」を排斥する(空気読めないと蔑む)風潮を蔓延させている。
これを踏まえれば(踏まえなくても良いが..)、この芝居の基調には「物事を遂行した者」への肯定的な眼差しがある(たとえ犯罪でも)と言える。その事は批判すべきどころか、演劇がやるべき仕事がそこにあると評価したい。ただし史実としては、「左」派が日本の主流であった事は一度もなく、その「恐れ」を抱かせた現象があったに過ぎない。しかし芝居では当時「左」が世を席巻していたかのような描写があり、主人公の危機感を高め暗殺実行のモチベーションを最大化している。彼女の「歪んだ主観」を描いたと取れなくもないが、いずれにせよ彼女への英雄視の中に「世の危機」が背景として織り込まれる(即ち誤解)。
物語は、最終的に彼女が犯罪者であり「彼」を暗殺する事によっては変革は起きず、ただ一人の個人を抹殺しただけに過ぎない・・そう彼女に宣告するのだが、それでも消えない主人公への英雄視は、彼女の「状況への対応」に向けられる。
時代を現代に置き換え、もし「行動しえた者」を描くとしたら、どうか。非難、または英雄視される存在は、その「病的」あり方を「心」とその来歴に求めるだけで成り立つか。つまり政治的状況への「判断」の正否を問わずに物語化できるだろうか。恐らく、安倍晋三一人殺しても変わらない状況が作られている構造の壁を前にするだろう。
・・この題材を扱うならば、現在あるこの「壁」に引っ掻き傷くらい残したい・・。個人的な願望ではあるが。