ロンギヌスの槍 公演情報 風雷紡「ロンギヌスの槍」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2018/08/15 (水) 19:00

    「ロンギヌスの槍」は、一義的には赤巌委員長を刺殺した17歳少女まことのナイフのこと。一方で、象徴的に見れば、あらゆる行為に理由を求めようとする、人間の理性的な思考に対する揶揄とも思える。

    神はただ許しを与えるのではない、それは「裁き」の結果なのだ。「裁き」というと、そこには当然、当事者の自由意思に対する、罪状の重さが勘案されるはずのものなのだが、神の「裁き」とは、神の「意思」の総体であり、いわゆる「神の思し召し」とはまさに「裁き」ななのだ、とこの物語は言っている。きよしの死も、赤巌委員長の死も、ラストにおとずれる生あるものの死と、生を与えられることのない死も、全ては「裁き」である。一方、父親が戦争に行き死なずに帰還できたのも、母親が子供を失い苦しむのも、赤巌夫人が少女に激烈な憎悪を抱くのも、これもやはり「裁き」なのだ。

    そこに「理由」を見出すことに意味はない、ただそれは「意思」なのだから。人間はそれぞれの事象に、正解のない「意味」を見出すことに人生を」さ挙げるしかないのだ。

    17歳のまことが刺殺にいたった「意味」は何なのか。まことが刺殺に向かい階段を上る姿は象徴的だ。一段上るごとに、逡巡と決意とが目まぐるしく交錯する。彼女は自らの意思で、刺殺を止めることができたはずだ、と観客は思う。しかし、それは、この物語では何の意味のない。この感情の交錯さえ、「意思」によるものであり、こうした感情の発生の「意味」を考えることしか、人間の存在の埒内にはないのだから。

    こうした人間の行動における合理性の排除は、不条理な状況に見える。しかし、この物語が語っているのは、「不条理」の否定であり、また神の名を借りた「運命」の肯定でもなく、自由をもって現実に抗おうとする無力な「実存」なのではないかと思う。

    舞台は取調室での会話をもって進行するが、頻繁に出てくる回想シーンや取調室外のシーンも、観客の視線や、刑事たちの視線を取り入れて、場面転換を無理なく行っていて素晴らしい。

    特に刑事を演じた霧島ロック氏と杉浦直氏が、とてもよい。狂言回し宜しく、時に軽快に、時に重厚に話を進行させるし、掛け合い1つ1つが、この淀み見えなくなりそうな物語を、ひたすら日の光の下に救い上げて見せる。

    テンポもよく、場面の繰り返しも、散漫になりそうな観客の注意をテーマに引き戻してくれる。

    浅沼稲次郎暗殺事件に材をとっているけれど、それはこの事件からテーマを取り出したのか、あるいはテーマを表現するのに、この事件が適していたのか。ちょっと興味があるところ。初見の劇団なので、次回作以降でそれが見極められたよいな。

    ネタバレBOX

    「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」
    この表現では、彼らが目の前にしていた者とは別の者が、現れてくるということになる。
    刺し通す前には見れなかった者とは何か。それは善悪の彼岸にいる者、何らかの力(神に限定しない)に抗おうとしても抗いきれない者、ただそこにいて生きていく人間という存在が見えてくるのではないか。パスカルに言わせれば「葦」のような人間のこと。

    舞台後方のオブジェは、窓なんですかね。中央の部分が入り組んでいるなあ、と思ったら十字架だったんですね。すると、階段上はゴルゴダの丘ですね。きよしとまことの兄弟は、そこで死んだんですね。

    0

    2018/08/16 12:17

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大