1999 公演情報 福島県立いわき総合高等学校「1999」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★


    1999年。ノストラダムスの大予言が人類を混乱させる時代のさなかに産れた10人の女子高生たち。彼女らの「世界の終り」は絶望と泥と瓦礫にくすんでも、希望に満ち溢れてた。夢を叫び踊り歌うキラキラした笑顔に、笑いながらぼろぼろ泣いてしまった。

    ネタバレBOX

    その印象的なフライヤーに出会ったのは、シア・トリエ「US」仙台パトナシアターでの公演だったように思う。私の記憶ちがいでなければだが。
    そのフライヤーは、8月に行われるいわきアリオスでの卒業公演のことを知らせてくれていた。しかし、気に留めつつも都合がつかず行けず終いだった。

    24日土曜日の午前11時頃、東京へ向かう高速バスの中で、土日の予定が突然すべてキャンセルになってしまい、うろたえている自分がいた。
    関東にいる友人に連絡をとっていたところ、かなみんこと、青年団の菊池佳南さんが、こまばアゴラ劇場での公演があることを教えてくれた。

    初めてのこまばアゴラ。気になっていた作品の東京公演。幸いにも追加公演があった。
    アフタートークには、いわ総の生徒たちを率いる齋藤夏菜子さん、いわき総合高校の表現教育の礎を築いた、いしいみちこさんと、作・演であるFAIFAI/三月企画の野上絹代さんが登壇。
    渡りに船とばかりに当日券予約の手配をお願いした。

    いわき総合高校の生徒たちは、演劇の授業を通し、コミュニケーションについて学んでいるという。
    演劇をとおしてコミュニケーションの手法や意義について考えることには、ずうっと興味があったのだ。
    昨年、仙台で「震災と文学」という講演会の際、平田オリザさんのお話をきく機会があった。そこでも、地方での演劇活動や表現活動を継続する意義について熱心に話してくださったのをよく覚えている。
    講演を聞きながら、地方都市に住む者としてとても感銘をうけた。

    下北沢の南口から、歩いて駒場まで向かった。賑やかで色鮮やかな街灯りのなかをすこし歩くと、大都会の真ん中とは思えないほどしずかで朴訥とした街並みに出会う。

    地元宮城にもありそうな、素朴なまちを歩いているときは、あんなにもあらくれて飛びっきりキュートでいじらしい世界の終りに出会えるなんて、想像もしていなかった。

    こまばアゴラ劇場は、たくさんのお客さんで溢れかえっていた。

    そこに見知った顔を見つけて、驚きとともに、嬉しくなった。
    たなりんこと、演出家の田中圭介さんが、かなみんの隣に座っていたのだ。
    コマイぬろく吠えめ「親戚の話」で知り合いになり、昨年仙台にて、演劇企画集団LondonPANDA大河原氏主催のワークショップを受けて以来の再会だった。
    ふるさと石巻で出会った演劇人と、東京の劇場で思いがけず再会できるとは、ほんとうに思ってもみなかった。

    男子高校生が舞台にあがり、会場いっぱいの観客に向かってマイクで語りかける。
    緊張しているのがすごく伝わってきて、おもわず、がんばれ、大丈夫。とぎゅっとこぶしを握る。

    もくもくとスモークがたちこみ始め、おどろおどろしいBGM、世紀末を思わせるMCとともに、ノストラダムスが誕生を予言した恐怖の大王たちが姿を現した。

    そいつらは、ほんとうにどこにでもいる、可愛らしい女子高生たちだった。
    どこにでもいて、どうでもいいことに悩み、やってる悪いことのレベルも低くて、純情で空回ってて好きな彼にアイラビューさえ言えないような、イマドキのJKたちだった。

    ほんの数か月前の自分たちの姿を思い返して、
    「なんかこの頃、私たちキラキラしてんなー。いまはなんか全然だなー。」
    って呟くとことかね。ああそうだよね、高校生の頃って、ちょっと前のことでもそういう風に感じちゃうよね、とも同感しつつ。
    「いやいやいや君たちいまもじゅうっっっぶんキラッキラだからね。めっちゃくちゃ輝いてっからね!」と心中でツッコミつつ。

    ミュージカルだから、劇中歌があるんです。その劇中歌がね、可愛かったんですよ。
    あんまり楽しそうに歌うもんだから、ついついこっちも一緒に踊りたくなっちゃう。
    手拍子や合いの手を入れたくなるぐらいでした。
    でもごめんね、みんなの名前覚えるテストは赤点取りそうです。あの短時間じゃなかなか覚えられなくて、すげー悔しかったです。もらったパンフ見ながら復習します。

    そのなかでも私が気になったのは、血塗られたメガネななみ。
    なぜか彼女のことが気になりすぎてつい目で追ってしまう。
    ななみが、嘘と偽り震えた声で本当の話を漏らすシーンは、席を立って抱き締めたくなるほどに切なさがありあまりました。

    「嘘と本当」のエピソードは、ちょうど自分も高校生の頃に友人と話した記憶がある。
    夕暮れの放課後、同級生の友人が急に「自分は嘘つきです。これは本当ですか?」
    と質問してきた時がありました。
    自分は一頻り考え「本当の嘘つきは自分が嘘つきだなんて言わない」と答えました。
    なんでわかったの?!と心底驚いていた友人の可愛らしさは、いまでもよく覚えています。

    自分は毎日嘘をついて生きています。

    「ごめん、お待たせ、待った?」
    「ううん、いま来たとこだよ。」
    「冷蔵庫のプリン食べたでしょ?」
    「ううん、食べてないよ」

    数えきれない小さな嘘も、ここに書けないおっきな嘘も。

    でも、本当のことを
    嘘だと偽って話しても
    嘘になってほしい現実は
    嘘になってはくれないんですよね。

    海にまつわるシーンは、始まった途端に嗚咽がとまらなくなってしまった。本当にこの季節になると、南風とともにわたしのもとに届く潮の匂いに、感情を揺さぶられてまいってしまう。

    「海のそばにあって」
    「海が見たいなあ」
    「海、いま、どうなっているのかな」

    そんなセリフが本当にリアルに自分の中に響いてしまって。
    当時の彼女らに押し寄せた感情の渦を想うと、どうしようもなくなってしまう。

    1999の物語はすすむ。大王の仮面が剥がれた少女たち。
    等身大のその姿は、とてもなまなましく、ただそこに存在しているだけでも、ふわっと光を纏っているようだった。

    何者かになりたい願望と、何者にもなれないかもしれない不安。
    とりとめもない悩みが毎日を支配していて、それでもがむしゃらにひたむきに、どこにでもいる女の子で居続けている。
    いつか特別な誰かになれる日を、いつか誰かの特別になれる日を、ぼんやり夢見ながら。

    「世界の終り」上演の冒頭。世界のこわれる音がいっぱいに響いた。
    “あの日”が頭をよぎったのはもちろんだが、
    “いつか来るかもしれない明日”への不安に背筋がひやりとした。

    同時に、彼女らの、精神的な拠り所である世界の崩壊を表しているのかもしれない。とも思った。
    外の世界に飛び出すことは、とても勇気のいることだ。
    旅立ちや新しい挑戦に向かうためには、居心地のよい守られた世界でだけ生きていくことは出来ない。

    ああ、でも。
    この子たちが、本当に安心して毎日を過ごせる日々が、ずっとずっとずーっと続けばいいのに。
    そう願わずにはいられなかった。

    この子たちが、安心して夢を語り、前を向いて歩いていけるような。
    疲れたらちょっぴり寄りたくなるような。
    そんな居場所がずっとあればいいと思った。

    ラストシーンのダンス。汗にまみれて踊り回り、夢や希望を叫びながら、笑顔をふりまく少女たち。
    いろんな感情がどっと降ってきて、笑っていいのか、泣けばいいのか分らなくて。くしゃくしゃの笑顔でぼろぼろ泣いていたんだと思う。

    たなりんが会場にいたからかもしれない。
    石巻での多摩美生による「赤鬼」の公演のときの出来事も、思い出していた。
    千秋楽公演の直前、本当にすこしだけ、時間が出来た。私はふと思い立って、赤鬼チームに「海を見に行こうか」と提案した。
    会場から車を走らせ、雲雀野の浜へと向かった。今現在は、防潮堤の工事が進み、ちがう姿に変わった浜のひとつだ。
    浜につくと、みんな一目散に海に駆けて行って、とても無邪気に波にじゃれついているのだ。

    なんだか、そうしてはしゃぎ回る彼らの姿と、にこやかに踊りまわる彼女らの姿がふと重なった。

    私私私私!私ワタシ私わたし!わたしアタシあたしワタシ!

    そうだよ、自分のこと、もっと叫んでいいんだよ。
    あなたはアナタしかいないから、もっともっと、あなたの夢にむちゅうになって、アナタの道を走り続けて。そう叫びたくてたまらなかった。

    終演後。駒場東大前までの夜道を、ゆっくりゆっくり歩いた。

    かなみんが、演劇への想いや、こまばアゴラでの思い出を、隣で語ってくれた。
    続けてきたこれまでとこれからを想う熱い気持ちと、
    冷静にいまを見据えようとする彼女の言葉の熱量に、頼もしさとうれしさを感じていた。

    駅のホームからまたたく星がみえた。
    なんだか言葉が出てこなくて、ぼーっと夜空を眺めてしまった。

    高校での演劇部時代を経て、彼女らの夢のさきを歩いている俳優と、本当になんでもなく、隣を歩けている。
    そんな彼女らに関わる演出家が、本当に嬉しそうに教え子のことを語る横顔を眺めている。
    なんだかそんな巡り合わせが不思議でしょうがなくて、こそばゆくもなんとも言えなくて、からだの真ん中があたたかった。
    この気持ちをしあわせとよべるなら、そうなのかもしれないと思った。

    恐怖の大王たちからは、先の見えないおそれではなく、
    ふたたび帰ることのない、いつかのキラキラした想いを、もらったようなきがしている。
    いつかまた、舞台上でひらひらと舞う花咲く笑顔に会えることを願っている。

    素敵な舞台を、ほんとうにありがとうございました。

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    2018/02/28 19:23

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