鵺的トライアルvol.2『天はすべて許し給う』 公演情報 鵺的(ぬえてき)「鵺的トライアルvol.2『天はすべて許し給う』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    二重三重にも怖さと気持ち悪さが募る作品。
    それを歌舞伎町で公演する。

    (以下ネタバレBOXへ。恐ろしく長文になってしまいました)

    ネタバレBOX

    劇場に入るとTシャツ姿の女性が舞台に座り込んでいる。どうやら監禁されているようだ。
    しかし、観客は最初は舞台の上を見るのだが、そのうちに慣れてきたのかガヤガヤと話をし出す。「そんな雰囲気じゃないだろう」と思っているのだが、いろんなところで会話が弾んでいたりする。私は席が前方ということもあるのか、とてもそんな気分にはなれない。
    彼女たちは、これから始まる公演の中に登場する女性たちの行く末を暗示しているのか、現在進行形の状況ではないのかと思っていた。しかし、どうやらそうではなかったようだ。話が進みそれに気づく。

    舞台は軽めの前説を挟みつつ始まる。
    河野と仲元がなんか気味悪いなと思っていたぐらいだったが、和田の登場で一気に気味悪さが怖さに変わっていく。以降、結構気分が悪くなる展開に。「胸くそ悪い」展開だ。

    さすがに彼ら3人を見て、「いやいやいや、こんな人はいないでしょ」と思いつつもも、この数年実際に起こった事件が思い起こされ、そうとも言い切れない怖さがグイグイと迫る。
    このストーリーの上手さは、狂っている和田1人だけが加害者として出てきたのであれば、「キチガイが起こした、かなり特別な出来事」としてストーリーを見ていくことになるのだが、そんな男があと2人も出てくる。
    彼らに共通するのは、「自分が好きな女性は、自分のことも好きである」と信じていることだ。そして三者三様な異常さがある。
    この「自覚なき男たち」の狂気に観客がブラックホールに落とされていく。

    さらに「行間を読ませる」のが上手い作品でもある。
    例えば、仲元が意中のOLに話しかけても何も話してこない、というのは、仲元と彼女のそれまでの関係を表している。すなわち「この人には何を話しても自分の都合のいいようにしか受け取らない」「だから怖いから何も話さない」ということ。「婚約者がいる」と言っているにもかかわらず、訳のわからないことを言い張る仲元も、相当な人だということがわかる。そういう「行間」のようなものが随所にある。

    和田の口から映画『卒業』が出てきて「それはないだろうって」と、つい笑ってしまったが、どうやら和田は本気らしく、それをごく当たり前のことのように話している姿には、背筋が寒くなった。「どこまで狂っているんだろう、この人は」と、笑えなくなったのだ。
    このあたりの狂気の潜ませ方が、和田を演じた江原大介さんが上手すぎて、本当の狂気を感じてしまった。
    後から後から彼の口から出てくる、酷い妄想と思い込みに気持ち悪さが一杯となっていく。

    女優を拉致するときに鼻歌で聞こえてくる『卒業』の主題歌『サウンド・オブ・サイレンス』。この歌詞がこの作品とリンクしているのがまた怖い。「Hello darkness, my old friend I’ve come to talk with you again Because a vision softly creeping」。まるで自分の闇の中、妄想の中にいる女性に語っているようではないか。

    不思議なのは河野と仲元である。彼らは、どうやらかなりいい会社、大企業に勤めていることがわかる。こういう思い込みで生きている人は、普通の生活でもうまく人とは接することができないのではないかと思うからだ。和田は完全にアウトのようで、すでに両親や犬猫、その他を手に掛けているらしいし。ただ、河野の異常さの一端はあとで見えてくる。

    彼ら(河野と仲元)は、和田の提案、女性の拉致監禁にあっさりと同意する。完全にアウトな男・和田の論理、「坂本弁護士事件は自白がなければ迷宮入りだった」が怖すぎる。それはのちの弁護士の論理と、実はリンクしていた。

    河野は、中盤で彼の気味悪さ、そして妻の、のちの行動の伏線となる行動が出てくる。それはもう家庭内レイプ。妻への接し方が彼の本性を現していて、その一端を見せることで、彼の異常さのすべてを見せていた。彼の家のイスの、背もたれの板のようなものが外してあったのは、家庭の崩壊を示していたのだろうか。

    拉致監禁された被害者の女性たちは、「周囲にそんなことを知られたくない」という思いで、事件を事件化しない。確かにその気持ちもわからなくもないが、この展開にもやもやしてしまう。男たちの行動や考えに気持ち悪くなっているのに、さらにこれである。舞台の上も観客の心も、すべて行き止まりの中にいる。

    行き止まりで出口が見えない中で、とにかくこのストーリーの着地点はどこなのか、と思いながら観ていた。
    1人の女性は殺されてしまっているし、もう1人の女性はストーカー行為がエスカレートして婚約破棄、職場も辞めている。

    ラストで女性たちが行動に移すのだが、一瞬、その展開は「安直だな」と思った。しかしその後にもう1人の女性が登場してから「やっぱり、これしかないか」と落胆してしまう。どこまでも救いがない話だ。
    人も法も本気で狂っている者に対しては、まったく無力なんだということ。

    ただ、これが現実だとすると彼女たちのような行動に出ることはまずないだろう。つまり現実は、和田や河野や仲元のように狂った男たちの歯牙にかかり、苦しんでいる女性が誰にも知られずに多くいるのではないか。そしてそれにまた気分が悪くなる。

    ラストで行動に移すときに弁護士が「死体が見つからなければ8割は……」と言うのだが、実行犯で一番ヤバイ和田の「坂本弁護士事件は……」の考え方と根っ子は同じということに気がついてしまう。つまり、「人が死ぬ」という重大なことに対しても「社会の抜け穴」があるということだ。
    それはすぐ先に書いた「現実だとすると…………苦しんでいる女性が誰にも知られずに多くいるのではないか」という思いを強化していく。
    そして、3人の男たちに手を貸すことになる、興信所の女性は一応、調査対象の女性との関係を聞くのだが、それは単なるアリバイのようなものでしかないということも、被害者をさらに追い詰めていることを思わせる。

    ラストに女性たちが行う行動は、「あり得ない」ことなので、現実はもっと厳しく、そして救いのないことになっている、ということが最後の最後に観客に突きつけられたのだ。
    「私たちに出来ることは何もない」という現実。それを突きつけられた私たちはどうすればいいのだ。

    幕開き前、3人の監禁されているらしき女性たちは、劇中の3人の運命や状況とは違うことにラストに近くなってから気がつく。彼女たちは、たぶん和田がそれまでに拉致監禁した女性たちだろう。和田も「経験から大丈夫」みたいなことを言っていたので……。冒頭から真っ暗闇だったのだ。


    救いなしの、こんな話なのに小劇場ネタでかなり笑わせた(それにしても……ラゾーナ川崎……)。小劇場ネタで笑わせてくれた小山も、結局のところ和田・河野・仲元予備軍でしかなったのに笑ってしまった気まずさ。殺されて、自分の死体を見下ろす小山。彼の諦念のような目は一体何を見ていたのだろうか。後悔なのか。
    和田は溶鉱炉を「ブラックホール」と称していた。しかし後半になり「ホワイトホール」と言い出す。それは彼によれば「再生の穴」らしい。そこへの憧れは、和田も少なからず自分の行いが過ちだったことへの気づきなのだろうか。それとも「金づる」の両親を殺害したことの後悔なのか。
    自分の死体を見下ろす小山と、再生したい和田、天は彼らをも許し給うのであろうか。

    和田を演じた江原大介さんはもちろんのこと、役者さんたちは皆良かった。役に入り込みすぎるとトラウマになりそう(笑)。

    劇場を出ると歌舞伎町のラブホ街のど真ん中。
    開幕前の異常な場面(監禁されているらしき3人の女性)を前に、ガヤガヤしていた観客席ともそれは重なる。「お芝居」「他人事」の感覚。
    しかしガヤガヤと多くの人行き交う中の、そこここに誰にも気がつかない闇があるのかもしれない。
    男性である私が恐怖する舞台だったので、これから歌舞伎町を抜けて帰宅する女性たちの恐怖は計り知れない。

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    2018/02/14 07:22

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