2030世界漂流 公演情報 小池博史ブリッジプロジェクト「2030世界漂流」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    数年前web上でパパ・タラフマラの名を知り、どうやら評判のユニットらしいので「みたい!」と公演を調べたのが、解散前=最終公演の楽日前日だった。ニアミスを悔いてから数年、小池という人がそうだと耳にして、漸く鑑賞に至った。
    ベースは舞踊だが、舞踊の割合を削って、多要素(音楽、演劇的シーン、うた、大道芸=ジャグリング、またはそれらを組合せたもの)を配置している。これには「舞踊」を一要素に過ぎなくする、つまり舞踊のステロタイプを解体する意図があったのでは・・と推測した。私としては、歌やジャグリングがあっても全然良いが、もっと舞踊としての完成、全うを欲するところ、そこに至ってくれず、寸止めで終わるという感覚であった。
    パパ・タラの過去動画を見ると、やはり様々な要素・・音の変化に応じた変化、静止画として見せる場面(演劇的に凝縮されたシーン)、歌(ホーメイやブルガリアンボイス的な奴とか)などが舞台にぶち込まれていて、今回の出し物が確かにその延長にあると感じさせる。が、違いがやはりある。過去作品は舞踊の発展形としてではあるが「あるもの」を表現しようという目的への集中が明確で、アートであった。
    一方、今回は「世界漂流」というタイトルが示唆する「寄る辺なく漂う我々」のありようにイメージを重ねる事はできるものの、世界を線(あるいは面)で切り取る作業の果てに見えて来る「何か」は、ぼんやりしている。
    意味的に同じ線(方程式の傾きが同じ)が引かれて行くせいか、像が絞られて来ない。
    もっとも抽象表現を受け止める受け止め方は多様にあり、ど真ん中を当てられた人もいたのかも知れないが・・私には少々抽象度が勝っていた。
    「集中」という事で言えば、舞踊のベースに上モノを乗っける作業でなく、ベースが何であるか判らなくしている、という面があっただろうか。しばしば「歌う」場面になるが、本域で、あるいは日常感覚で、歌ってしまうと「演劇」的、「舞踊」的には弛緩の時間となる。時間というテーブルの上に、歌を「かぶせる」「浸潤させる」でなくただ横に並べたに過ぎなくなったのではないか。
    パパ・タラ時代と異なる様相が生まれたとすれば、方法論じたいにその問題が含まれていた、という事ではないか。・・勝手な推測だが。

    俳優たち。仏、フィリピンかインドの外国俳優2名と、個性ある風貌・体型の俳優ら十余名が、舞台上にほぼいつも居た。一旦はける事はあるが比較的すぐ出て来る。一つの絵を作る構成要素という意味があるのだろうが、例えば演劇的な場面が作られると、不要な人員がコロスのようにそれを見ていれば良いと思うがそれがなく、動くにせよ動かないにせよ、やはりそこで「芝居」をしている。従って総員が何らかの役を演じるという具合になっている。その時、実は各人は何らかの役を担って存在し続けていたのだ、という事になる。それは、全員が一場面を作るのでなく、各所でそれぞれ何か芝居的な関係を展開させているため、少なくとも皆一つは役を当てられているのだろうと推測させられるし、実際そうだと思う。
    この役たちの物語が、演劇としての説明が足りないために十分に展開しない、というのも憾みである。
    パフォーマー達の力量は確かだが、舞踊として完結しきれなかったのは全員が踊る事にしているので、(不得意な人もいるだろうから)多くを要求できなかったためだろうか、あるいは実はダンサーは少なかったのかな、など、あれこれ考えてしまった。(それにしては巧いが。)
    舞台上に誰も居ない時間が、ほとんどないのは落ち着かなかった。居る時はほぼ全員居り、場面転換時に一旦皆がはけたりすると、漸く一区切りつくという感じになるが、程なく一人、また一人と現われて来る。舞台全体として「何か」を表現するというより、出演者のための舞台?
    気持ちの良い動きや場面も沢山あったから良いではないか、と思いもするが、やはり何か不満が残ったというのは、何だろうかと考える。

    それでふと思ったのは、舞台というのは、演劇は特にそうだが舞踊であっても、その場でその時間を過ごした共感が即ち「感動」の中身なのではないか。もっとも、感動をすぐ言葉で分かち合う事は難しいかも知れないが、人に喋りたくなるその体験は、例えば客席に自分一人しか居なかった時、同じ感動が起きるかと想像すると、「自分一人に見せてくれた」という別の感動はありそうだが、つまりは、何らかの共感を体験したという確信が、「感動した」という感情にとって重要なのではないか。
    ・・何が言いたいかと言えば、「解釈は人それぞれ」と突き放されると感動が薄まる理由は、「今どういう体験を共有したか」の確信が萎えるからではないか。共感・共有は、その表現が意図する「良きもの」を確信に変え、日々の力とするためにこそ必要であり、演劇が尊い芸術である所以はそこにある。
    従って、私はこのパフォーマンスで例えば、「我々は厳しい時代を生きている」、あるいは「我々はどこに向かうのか何もわかっていない」、または「我々の時間とはこの世界を漂流するという事に他ならない」・・何でもいい、そのどれかを観客と「共有」できたと思えたらきっと嬉しかったなぁ。
    実際、何の比喩であるのか分からないパフォーマンスが多かった。比喩を狙っていないのかも知れないが。

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    2018/02/13 00:30

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  • この公演見逃しましたが、ご意見を拝読、よく舞台が見えたような気がいたしました。
    パパ・タマはダンスブームの先達で三十年募ど前にはよく見に行きました。ひょっとして演劇替わるか、とも思いましたが、影響はあったものの、リーダーの小池も疲れちゃったんだと思います。今世紀に入るころから急送に「日々の力」を伝えるエネルギーを失いましたね。

    2018/02/26 10:07

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