密やかな結晶 公演情報 ホリプロ「密やかな結晶」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    この所鄭義信の舞台を立て続けに観ている。在日・朝鮮モノから離れた今度の作品は、私の中ではかつての新宿梁山泊の記憶をくすぐられるものだった。
    宣材やタイトルのイメージとは異質なギャグ連発の始まりは、鈴木浩介・石原さとみのキャスティングには適合し、鄭演出の本領がのっけから暴走。シリアス、ナチュラルなモードから異質(笑い)モードへの転換の瞬間は実に判りやすく、コメディエンヌ石原に合わせた演出と得心する。
    寓話的で示唆的な原作者小川洋子の筆致が想像される舞台だったが、ラストは原作通りかどうかは判らない。
    音楽は芝居全編を、主に「暗鬱な社会」と「その片隅で慎ましく生きる人々」の二つのモチーフで包み、悲話の色調に仕立てている。その色調と適度の笑いのバランスは結果的にとても良く取れていた。
    回転式(可動式)美術を筆頭にスタッフワークは美しく、作品世界を十全に表現した一方、キャスト(の演技)の評価は分かれるかも知れない。
    いずれにしても初日、思わぬハプニングもあったが、終わってみれば鄭義信らしい愛の物語だった。
    ハプニング分を差し引き、今後の伸びしろも計算に入れると、結構質の高い舞台になるかもである。

    ネタバレBOX

    ある島では一つずつ物(概念)が「消滅」し続けていて、今も新たに「鳥」が消滅し、やがては「小説」が消える。いろんなものが消失していくという荒唐無稽だが詩的イメージに満ちたSF物語である。
    秘密警察が暗躍し、殆どの島民は消失を感知し、受け入れるが、中に例外=レコーダー=と呼ばれる人たちがいる。彼らは記憶を留めているがゆえにそう呼ばれる。芝居の冒頭は、鳥が消滅した日、鳥かごを抱えて逃げる男がついに秘密警察に捕らえられ、人々はそれをフェンス越しに見、ある一人が闇に隠れるように姿を消す、という場面だ。
    照明が明るくなると、主な舞台となる邸の居間で、父母を失った娘(石原)が、「おじいさん」と呼ばれる献身的な男(村上虹郎)と共に消滅したはずの品物(両親の遺品)を手に取りながら語り合う場面。彼らはレコーダーではないが、父母の遺品を捨てられず隠し部屋に隠しているという小さなレジスタンス。ただし大多数の市民と同じく彼らも物の名を忘れ、消滅を受け入れ、その物にまつわる感情も消えている。その日、秘密警察がやって来て、父の遺品である書物を奪っていった。
    小説を書き、1~2冊本も出版できるようになった娘の、貢献者だろう編集者(鈴木浩介)は彼女の小説の第一のファンと自称し、熱い賛辞を送っている。その彼は実はレコーダーであった。失われた物を全て記憶するが故に失われた物の貴さを説かずには居られない衝動を抱えもつ。秘密警察の追っ手を逃れながら、いつかそれらが自分らの手に戻ってくる日を、まだ見ぬ夢のように望んでいる・・この設定が、「物について語る」態度によって伝わり、喪失した物への愛着と、知って欲しい相手への愛が自然と重なる。かくして「消滅」の意味、消滅させる意思?の正体へのベクトルが生じるが、そこは秘密警察という見える存在によって巧みに伏せられている。
    喪失について、「あながち悪いものではない」、人はそれが無くても生きて行ける事が判り、むしろサバサバしている・・と、物語の始まりで登場人物に語らせる。この「清貧」に通じる観念の一方で、失わせようとする意思の存在が、明示されないながらも変質していく局面が、終盤「左足」が消滅した時だ。不便極まりない状態に、アウトローの最後の掬い網である秘密警察の面々が「一抜けた」と言い始める。島は滅亡の予兆をはらむが、別の何かが変わる(明るい)予兆にも感じられ始めるというポイントだ。
    この寓話は、愚かな権力の理不尽を人間の宿命として設定した暗喩で、まさに今の状況に当てはめる事もできる象徴的な芝居ともなったが、物語中での「消滅」が、身体に関する場合、消滅の予感があるという設定は、この暗喩から遠ざける。人が左足を引きずりながら動き回る「世も末」な終盤で、次に何が失われるかが判る、と娘は言う。衰弱した娘はついに命を落とす。一方レコーダーは左足を引きずることはない。実は消滅とは人々への洗脳を意味するのではないか・・その仮説は娘が命を奪われる事で否定されたかに見える。
    秘密警察のボスとレコーダーの青年が兄弟であったエピソードや、元気の素にと娘から手渡されたラムネ(消滅したはずの)がアダとなり、町で集団リンチに遭って食材を奪い去られる「おじいさん」、一つずつ物が失われるたびに生きる力を奪われていくという様・・それらが不思議に一つの物語の中に溶け合って共存し、直線的でなく広がりのある芝居になっていた。

    最後に一言。石原さとみのある種の器用さは、なり切れなさから来る下手さと同居し、結局下手に着地している。鈴木浩介の方は巧さが勝ってはいたが、二人の愛し合う様が芯の所で融合していないと、判りながら見ている状態。石原の根明さが救い、と言ってしまって良いのか考えてしまう。
    むろん欠陥の無い舞台などなく、不足は観客が想像力で補うもので、今回もそのように観客は観たに違いないが、演技的にはうんと上を目指せると思われた。

    初日のハプニングとは、回転舞台を回す時、現われた居間の上手端に置かれているはずのワゴンが、遠心力だろう、暗転中にガラガラガッシャンとやってしまった。明転した後、鈴木氏が下手前の惨状を、様子を窺いつつアドリブで対応し、ワゴンと必要なカップだけ拾って芝居を続けたのに客は笑いを返していた。だが上方席から見るとこのカップの残骸は一幕の最後まで気になり、またアドリブ後の仕切り直し以降の芝居は、二人の間のビビッドな関係を会話で表現する場面であったはずで、芝居としてはそこが「喪失」した穴となってしまった。もっとも、それに奮起して稽古以上の芝居ができたのだとしたら、怪我の功名なのだろうけれど。
    長々と駄弁を弄した。陳謝。

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    2018/02/04 12:54

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