「蝉の詩」 公演情報 劇団桟敷童子「「蝉の詩」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    私は月1回、母親と演劇を観に行きます。歌舞伎(たまにオぺラ)ということもありますが、新劇が多い傾向にあります。母は戦前の生まれ、あまり突飛なものにならないことや、割とゆったり観れること、そしてできれば彼女の生きた時代と重ねられることなどを思うことからそうした傾向になっているのだと思います。

    ですから、小劇場などはまず想定していなかったのですが、桟敷童子とチョコレートケーキには、母親にも観るべき何かがあるという気がしておりました。

    そこで求められるのは、昭和の風景です(必ずしも明るく快いものばかりではありません)。しかし、俳優座でも民藝でも文学座でも、昭和という時代を見せてくれくれる舞台には出会えません。苦しさは個人の感情に還元されてしまい、明るさもお茶の間的なほのぼのさとしてしか表現されないのです。

    そして、「蝉の詩」。初めての小劇場でしたが、見せてよかった。それは私もうろ覚えながら知っている昭和であり、感じてきた昭和がありました。生きることへの執着のある時代。これほど見事な世界を作り出すとは。

    この舞台の高い悲劇性・悲惨さも、人間のリビドーが作り出す笑いでうまく中和されています。それが素直な観客の涙につながるのでしょう。けして悲劇への感情移入が涙を流させるのではなく、ひたすら湧き上がる高揚感が涙を流させるのです。桟敷童子の力量の高さです。母に見せて正解でした。

    ネタバレBOX

    ラストの描き方について幾つかのご意見があるようです。

    織江のその後の数十年が判らないのでラストでの感情移入ができない、ましてや、ホームレスの老人になった織江に、今は亡き皆が「もっと生きろ」と言うことに何の意味があるのか、というご批判はごもっともです。

    確かに描かれない、織江の生きた数十年に観客が想いを馳せるのは困難です。亀吉から相続したであろう遺産はどうしたのか、夫はいつどうして死んだのか、子供はいないのか、なぜアイスクリーム屋は失敗したのか。判りません。
    ただ辛いだけの人生ではなかったのだろうとは、織江が姉の言葉(まっすぐに生きろ)を今も忠実に守っていることから推察できます。

    ラストで皆が「もっと生きろ」ということの意味は、題名でもあり劇中で創作される「蝉の詩」にあるのではないかと思いました。

    蝉は「みん」と鳴く、「死にたきゃねえ」と鳴く

    人は死ぬと蝉に転生すると劇中で語られています。また黄金色の蝉を見つけると一生幸せに暮らせるとも。

    織江はその最期を考えれば、黄金色の蝉を見つけることはできなかったのかもしれません。でも蝉に転生した時、彼女が黄金色の蝉になっているかもしれません。それで人を幸せにして、7日目に「みん」と鳴くのでしょう。

    きっと、そうした意味でも織江に、皆はもっと生きろと言ったのではないでしょうか。

    確かに織江は、まだみんなのところ(姉達や亀吉のところー黄泉の国)に行けないのかい、と一瞬嘆きます。ただ、彼らのエールはそんな弱気じゃだめだよ、「みん」と言ってみろということではないでしょうか。織江が最後に、気を取り直してアイスクリームの旗を振るのは、彼女なりの鳴き方だったのではないかと思えて仕方ないのです。

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    2017/05/09 11:49

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