陥没 公演情報 Bunkamura/キューブ「陥没」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ケラ作・演出舞台は三つ位、残念ながらヒットに未だ遭遇せず。いや遭遇しても私がそう思わないだけかもであるが(ウェルメイドなタッチが苦手という事は言える)。映像で観た二作の一つは毒が前面に出て悪くなかった。建造物のように芝居を堅固に構築する印象。昨年「8月の家族たち」を観劇したのはケラ氏の「演出のみの舞台」をみたかったからだが、確かな技であった。
    だが今作、気になるのは芝居じたいの結語になる部分、芝居本体よりは、洒落や蛇足と見えなくもない部分だ。(またまた例によって歴史云々の話になりそうだがご勘弁を。)
    昭和三部作という。・・歴史の描き方には二通りある。問題の根を掘り起こす視点と、讃うべき現在へのルーツを再発見・再構成する視点。このように区分すれば、という話だが、この舞台は後者になっている。単純に、前者は現在と過去に懐疑的で、後者は逆に肯定的、という違いに過ぎないが、単なるドラマのタイプの別を超えた根本的な違いがあると、私は思っている。
    3時間に亘る作品をただこの区分で振り分けて批評するのは乱暴だが、重大な分岐がそこにある、と、多くの観客を動員する公演だけに申したくなる所なのである。(くだくだしい論議はネタバレへ)

    ネタバレBOX

    懐疑史観と肯定史観、「作品」の中では両者混在するのが通常だが、話の閉じ繰りが歴史秘話の開陳の体裁なら、後者のそれだと言える。『陥没』はそれに属する。
    もちろんこの舞台は「歴史物語」ではなく、1964年の東京五輪開催に合わせたホテル開業の夢が今花開かんとする、準備段階のホテルの中で展開するドタバタ、ラブコメディだ。史実に触れているのは「東京五輪」くらいである。が、五輪を睨んだ「時」を歩んでいる設定は、強い。必然今の2020五輪を睨む現在にも重なってくるからである。
    さて、冒頭の場面ではホテル建設の夢を語る男(山崎一)とその娘(小池栄子)、その許婚(井上芳雄)が慎ましく暖かな関係を見せている。が、父が倒れたとの知らせとともに暗転、タイトルロールが映像で流れ、本編に入った三年後では、娘小池は夫井上とは既に離婚し、冒頭場面の最後に「気持ち悪い」風情で登場した、父の会社に引き抜かれた有能な新社員(生瀬勝久)と小池はなんと再婚している。小池は取締役社長として現場を健気に仕切っており、従業員は他に事務員(緒川たまき)と、あとは生瀬。そして死んだ父の霊も天界から男女二名を伴って登場する(観客にしか見えない)。
    ホテルのロビーで展開する話の中心は、小池の元夫・井上と、若い新しい恋人(松岡茉優)との婚約式が翌日、このホテルで開かれるというもので、井上の弟(瀬戸康史)と彼らが連れてきた友人?(山内圭哉)、井上の母(犬山犬子)、松岡の高校時代の教師(山西淳)などが出入りする。どういう経緯か逗留しているマジシャン(高橋惠子)、その秘書(だったと思う・近藤公園)、婚約者の女友達の歌手(趣里)も加わる。天界の同伴者二人は丸い電灯で表現され声のみ出演(誰かは不明)、やがて姿形を現すが、その場合はある登場人物の体を借りて行動し、乗り移られた方はその間の記憶をなくしているという案配。天界人の「七つ道具」惚れ薬が厄介な事態を引き起こし、カテゴリー的にはラブコメそのもの。
    冒頭の伏線は、本編の歪んだ状況(生瀬が小池の夫である事、元夫も別の相手と婚約しようとしている事)を、超克すべき視点を残し、忘れた頃にその問題が浮上して解決へと動き出す。撒かれた伏線が最後には拾われ、あるべき形に収まる、完結したドラマになっている。
    その構図を楽しめば良いという話ではあるが、やはりこの劇は「歴史」を落としどころにしている。東京五輪の前年に、こんな事があったとさ、無かった?無かったとは言えないさ、誰も見ていないんだから・・ま、そんなあれこれがあって、つまり日本はあの時代をくぐって、今という時代を迎える事ができたんだね。うん。なんか、感動だね。・・そういうオチで閉じられている。「日本」「歴史」の共有感が介在して成立するドラマのフォーマットを借りて、お客のご機嫌を窺う芝居に落ち着く訳なのだ。

    知られた歴史の「裏話」的な語りとは、史実を「それ以外にありえなかったもの」と規定し、「実はその裏には・・」と寝物語に話すあのニュアンスがある。パロディは、パロる対象が堅固であるほどよく、権力が強大で悪どいほど面白い諷刺を生むのと同じ構造だ。
    芝居はもっと複雑で多様な視点をぶちこむ事も可だが、芝居全体がどういう叙述となっているか、だ。芝居の序盤、世情を皮肉る台詞が吐かれるが、流れにそぐわず飲まれてしまう。
    高度経済成長時代の「秘話」は、昭和の当時の風俗を散りばめながら、しかし人物らの感覚は現代に近く、「誰もが知る」(訳ではないがそんな風情の)歴史=「昭和」のキャンバスに遊ぶ時間である。
    主語は時代。心温まった後味の理由は「現在の肯定」にある。芝居には毒もあったから、肯定された気にならない客も居たかも知れないが。。
    歴史の「肯定」と書いたが、歴史を俯瞰し、それが必然であったという意味で史実が「確定」された時、肯定か否定かという論議のステージは通り越している。
    運命論は、「それ以外に辿る道はなかった」のは宿命、即ち「必然」であって天の道理にかなっている、という叙述になる。複雑に絡み合ったものが解きほぐされ、収まるべき所に収まる物語じたいが「運命論」と言い換えて良いが、この話の中に人間の情熱や努力が無かったかと言えばそうでもなく、運命を「切り開こう」とする人間は描かれている。
    ただ、小ぢんまりな世界での右往左往が、「感動」の次元に持ち上げられるには、やはり「歴史」という大きな物語の力が不可欠であった。肯定された「現在」は、日本という国、あるいは共同体のそれであり、観客はその一員に組み込まれて、等しく祝福に与るという寸法である。
    永井愛の「時の物置」は60年安保の翌年、経済路線に舵を切り、生活の安定と「正しさの追及」(主に政治的次元)が齟齬を持ちながら同衾する事になった日本の、庶民レベルでの風景を描いた秀作だが、受験勉強に勤しむこましゃくれた高校男子にさらりとこう言わせている。「叶わぬ夢を追うより現実を愛した方がいい」
    これを演劇、ドラマに置き換えると、一つの補助線になるだろう。
    ドラマチックたる根拠を「歴史」そのものに置く叙述の方法。ドラマ作家と歴史の依存関係(「歴史」が擬人化して自らを肯定されたがっている、とみれば)が、私には欺瞞に感じられる。互いを称賛しあって付加価値を高めるのは、あながち商業面に限った話とは言えないが、損得勘定の匂いは燻る。
    作劇の才能と集客力を持つ作り手だけに、そこに繊細であって欲しい願望がある。
    渇えた人心には甘い蜜こそ栄養なのやも知れぬが、ナショナリズムという蜜(麻薬?)の扱いに芸術家は慎重であるべし。

    0

    2017/02/07 23:13

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大