棘/スキューバ 公演情報 不思議少年「棘/スキューバ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「棘」70分/「スキューバ」20分
    後者は短編のコンペで賞を取った三人芝居、軽快な場面処理が湿っぽい「家族・感動モノ」をサラリ、ふんわりとレノアに仕上げていた(自分は好みでなかったが・・)。
     前者が公演の本編に当たる、二人芝居。最期を迎えようとする老女(男が演じるので女性だとは後半で気づく)が、うら寂しげな声と共に薄暗がりの中に浮かび上り、向こうに対面しているらしい傷ついた「坊や」を呼び抱き寄せ、孤独の淋しさを隠し立てせず吐露するのを端緒に、女の告白が始まる。初めての男、その次の男・・・人生の節目での異性との出会いはいずれも「痛い」結末で、その折々の女の赤裸々な姿が、変顔をモノとしない女優の全力の演技(怪演)でかたどられていく。
    男女二人は、性別を障害とせず絶えず役割を替え、現在と過去を往復する。告白された人生の時間、それをこれから歩もうとする「坊や」は今、その一歩(異性との遭遇)を踏み出そうとする・・そんなラストだったか。
    薄靄に浮かび上る様が、荒涼たる被災地の亡霊のように見え、泣く「坊や」は親を亡くした子ども・・・熊本から来た劇団という前知識は、観る目に作用した。だが、被災しようがしまいが、描かれているような痛い人生は存在する。
    敢えて震災に関連づける意図は作者にはなく、メーターを振り切りそうな女優の演技は逆に感傷を退けているようでもあった。

    ネタバレBOX

    「泣く」場面がリフレインされる。初めての男性=若い教師に「恋ごっこ」の相手をされた挙句捨てられた時、子ども泣きに泣く。その結論は受けいれられない・・という一つの表現が、あの子供のように喚き散らす泣きで、滑稽さを帯びて場面が重くなるのを回避しているものの、二作目「スキューバ」でも同じ泣き方で(今度は子供役として)喚くところがあり、同じ公演の「別の場面」で見るにはややきついものがあった。
     「泣く」という行為は多様に底意を持ち得るもので、状況の説明としては不正確で曖昧、である割には「我欲」そのものは強烈に見えてしまう。困ったと訴える人を助けたいと人は思う。また、そう反応してしまうからこそ、逆に面倒に思い遠ざけようともする。
     悲しみは「欲」との兼ね合いで生じるのであり、その主観は「状況」とは別に存在する。女が男に捨てられた状況が、彼女にとってどういう性質の、どの程度の苦しみをもたらしたか、について女優は豪快に表現していたが、二作目で同様の泣きを見た時、その悲しみの程度は一作目に比べてどの程度か・・それは殆ど見えない。なぜなら本人がその「欲」をどの程度持つかで「悲しみ」の程度は違って来るのであり、自分がどの程度それにこだわるかも、自分でコントロールできる面がある。拒まれれば益々欲求が高まるという事もある。
     ・・・つまり、「泣く」時間は、「見えない主観」につき合わされる時間だ。
     まあ今回の作品には、大きなモンダイではなかったが・・。

     唐突に結論。傾きそうな「ウェルメイド」路線は思いとどまり、魂の叫びを叫ばせてほしい。

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    2016/10/24 05:41

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