ゴミ屑の様に可愛い我が儘の為に。 公演情報 劇団milquetoast+「ゴミ屑の様に可愛い我が儘の為に。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    両方観れば面白いだろう【抒情詩編】
    当日パンフには「彼方になってからが『はじまり』です」とある。判然としなくなったのが、劇創作そのものなのか、その創作を彼方から観ているのか、その視座というか視点が分からなくなった。
    抒情詩(リリック)と叙情詩(エピック)ということは、虚・実ループするような作りになっているのであろうか。スケジュールの関係で「抒情詩(リリック)編」のみ観させていただいた。
    (上演時間1時間35分)

    ネタバレBOX

    梗概...元演出家・故三橋譲慈(植松俊サン)は不慮の事故で亡くなる(享年32)。その劇団は公演に向けて稽古しているが、今一つ魅力に欠ける。その劇中創作に成仏できずに彷徨っている故人。生前は不完全燃焼で、芝居演出に未練が残っているようだ。もっとも本公演ではその演出ぶりは観せず、物語の進展そのものが演出しているという設定のようだ。そして劇中劇が魅力付けされ、完成に近づくにつれ自身が彷徨える浮遊霊から本当に彼方(来世)へ旅立つような...。

    その観せる舞台セットはシンプル。下手側にカーテンで仕切った奥に飾り棚があるのみ。上手・下手にある柱に映し出される陰影、それが現世(尖塔窓的文様)と来世(幾何学的文様)を区別しているようだ。

    未練な想いが、劇団員相手へ凭(もた)れるような虚実の「からみ」として交じり出す。実際、この公演の作・演出の長野恵美女史の抒情の原点がここにあるのかもしれない。劇中芝居を動かし回すのが、スバル(うめいまほサン)と とみて(長野恵美サン)という主人公・故三橋の先祖と子孫である。この道化のような存在がラストの余韻に繋がる。しかし遊び心なのか、印象付けなのか先・子を逆転させるようで複雑・混乱してしまう。

    芝居は脚本家・演出家の思いを役者の体を通して観客に伝える。自分がいて相手がいて、その先に第三者(観客)がいる。役者という他者の障壁がどう語りを紡ぐか、その不確かな表現の中で芝居は成り立っている。そんなギリギリの地点から じわっと立ち上げた抒情詩。不思議な感覚で面白いと思うが、観客(自分)として感情が動かなかった。
    演技は比較的小さい劇場であるにも関わらず、絶叫するような大声には閉口した。熱演であろうが、出来れば抒情的な表現にしてもらえれば...勿体無い。

    次回公演を楽しみにしております。

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    2016/09/19 23:21

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