満足度★
浮足立ったまま埋もれて
公演前から、作者の名義交代というトラブルが発生していたことで、どんな出来になっているものやらと危惧していたが、それでも先入観を持たないように、虚心坦懐に観ようと心掛けた。
しかし実際に舞台上に展開されていたのは、悲惨としか言えない「演劇もどき」でしかなかった。ともかく、ストーリーも台詞も、空回りしまくっている。今、舞台上で何が行われているのか、それが次の展開にどう作用していくのか、それが皆目見えない(「予測が付かなくて面白い」ということではない。芝居から読み取れるはずの「意味」「解釈」が拒絶されているのである)。おそらく、そう感じた観客の方が大半だったろう。
なぜそんな惨状になってしまったのか。公演パンフレットの池田成志×内藤裕敬の対談を読めば、原因は明白である。詳細はネタバレの部分に書くが、結論だけを述べれば、役者がみな演劇の基礎すら理解しておらず、そのくせ我流の演劇経験だけはあるから「根拠のない自信」はあって、問題を指摘されても改善できずに、「守りに入る」演技しかできなくなる。会話と演技は硬化し、ますます使い物にならなくなる。結局、内藤裕敬は、中島かずきの脚本をこのまま演出することは不可能と判断し、彼らにも演じられる程度のものに改訂せざるを得なかったのだ。そのために、「物語」の部分が大幅に犠牲になってしまったのだ。
作品の最終的な責任は、演出家にある。その意味では、内藤裕敬と池田成志(内藤が改訂作業に集中している間、実質的な演出は彼が行っている)が、この悲惨な舞台の責を負うべきかもしれない。しかし、糞ったミカンを(取り除くのではなく)腐る前に戻すことが可能なのかどうかを考えてみたらいい。演出家両氏は、負け戦と分かった上での戦いに挑まざるをを得なかったのだ。これを簡単に責めることは、私にはできかねる。
実は池田と内藤の必死の努力によって、役者たちの演技自体は、これまでの彼らの学芸会演技(簡単に言えば生きた「間」を取れない棒読み演技である)よりもはるかに向上している。しかし、それがこの舞台の限界であった。
内藤や池田が指摘した九州演劇人の「根拠のない自信」に対する批判は、これまでも再三、行われてきたことだが、彼らはそれが一番痛いところを突かれるがゆえに、一切無視してきた。おそらく、彼らは公演を終えて自分の劇団に戻っても、また学芸会演技に戻ってしまうだろう。既に、この誰の目にも明らかな悲惨な舞台すら、Twitterを見ると彼らの「取り巻き」は絶賛しているのである。もちろん、お世辞でそう言ってるだけなので、どこがどうよかったなんてことは具体的に言えやしない。役者を甘やかして増長させるだけである。そんな「誉め殺し」の環境の中で、今後もマトモな舞台が作れるはずがない。
本当に役者たちに学習能力があって、演劇の道に進む本気があるのなら、巡演が終了したのち、上京して劇団に入り直すことから始めるだろう。賭けてもいいが、これまで片手間でしか演劇をやって来なかった彼らに、そんな勇気はないと思う。