浮足町アンダーグラウンド 公演情報 浮足町アンダーグラウンド」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 1.7
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  • 満足度★★★

    仕上がりは
    何とかなっていたかなと感じました。でも、コメディーに走って、ホランドからホラ吹きになって、ごちゃごちゃしだして、最期に芝居に戻して落ち着くかと思っていたのに、ほら、ってねえ。不完全燃焼にならなければいいけれども。

  • 満足度

    浮足立ったまま埋もれて
     公演前から、作者の名義交代というトラブルが発生していたことで、どんな出来になっているものやらと危惧していたが、それでも先入観を持たないように、虚心坦懐に観ようと心掛けた。
     しかし実際に舞台上に展開されていたのは、悲惨としか言えない「演劇もどき」でしかなかった。ともかく、ストーリーも台詞も、空回りしまくっている。今、舞台上で何が行われているのか、それが次の展開にどう作用していくのか、それが皆目見えない(「予測が付かなくて面白い」ということではない。芝居から読み取れるはずの「意味」「解釈」が拒絶されているのである)。おそらく、そう感じた観客の方が大半だったろう。
     なぜそんな惨状になってしまったのか。公演パンフレットの池田成志×内藤裕敬の対談を読めば、原因は明白である。詳細はネタバレの部分に書くが、結論だけを述べれば、役者がみな演劇の基礎すら理解しておらず、そのくせ我流の演劇経験だけはあるから「根拠のない自信」はあって、問題を指摘されても改善できずに、「守りに入る」演技しかできなくなる。会話と演技は硬化し、ますます使い物にならなくなる。結局、内藤裕敬は、中島かずきの脚本をこのまま演出することは不可能と判断し、彼らにも演じられる程度のものに改訂せざるを得なかったのだ。そのために、「物語」の部分が大幅に犠牲になってしまったのだ。
     作品の最終的な責任は、演出家にある。その意味では、内藤裕敬と池田成志(内藤が改訂作業に集中している間、実質的な演出は彼が行っている)が、この悲惨な舞台の責を負うべきかもしれない。しかし、糞ったミカンを(取り除くのではなく)腐る前に戻すことが可能なのかどうかを考えてみたらいい。演出家両氏は、負け戦と分かった上での戦いに挑まざるをを得なかったのだ。これを簡単に責めることは、私にはできかねる。
     実は池田と内藤の必死の努力によって、役者たちの演技自体は、これまでの彼らの学芸会演技(簡単に言えば生きた「間」を取れない棒読み演技である)よりもはるかに向上している。しかし、それがこの舞台の限界であった。
     内藤や池田が指摘した九州演劇人の「根拠のない自信」に対する批判は、これまでも再三、行われてきたことだが、彼らはそれが一番痛いところを突かれるがゆえに、一切無視してきた。おそらく、彼らは公演を終えて自分の劇団に戻っても、また学芸会演技に戻ってしまうだろう。既に、この誰の目にも明らかな悲惨な舞台すら、Twitterを見ると彼らの「取り巻き」は絶賛しているのである。もちろん、お世辞でそう言ってるだけなので、どこがどうよかったなんてことは具体的に言えやしない。役者を甘やかして増長させるだけである。そんな「誉め殺し」の環境の中で、今後もマトモな舞台が作れるはずがない。
     本当に役者たちに学習能力があって、演劇の道に進む本気があるのなら、巡演が終了したのち、上京して劇団に入り直すことから始めるだろう。賭けてもいいが、これまで片手間でしか演劇をやって来なかった彼らに、そんな勇気はないと思う。

    ネタバレBOX

     『浮足町アンダーグラウンド』がどういう物語か。一言で言えば、「ホランド」とは何かを問い質していく物語で、要するにベケットの『ゴドーを待ちながら』の変形である。
     浮足町に唯一残った「浮足炭鉱」の秘密、「ホランド」は初め、戦前に開発された人造採掘人間のことだと提示される。炭鉱買収を目論む三津繩総研の目的も「ホランド」であった。しかし、その秘密を明かされたくない炭鉱の人々は、口々に「ホランド」とは全く別の存在であることを言い出す。曰く、炭鉱に隠された財宝だ、あるいは「ほら吹き」のことで、この町には「ほら祭り」の伝統があるのだ、等々。
     ところが、各人が適当に口にした「ホランド」の「正体」に、それぞれが真実であるかのような「証拠」や「証言」が付随してくるようになる。果たして「ホランド」とは何なのか? 「ホランド」は実在しない。そう結論が出かけたところに、炭鉱の竪穴櫓を破壊して、巨大な「ホランド」が姿を現す――。

     ストーリーをおおざっぱに書けば、こんなところだが、この物語の骨子自体は、中島かずきの原作のままではないかと思う。SF設定が不条理劇へと移行する意欲作と言えるが、これをいつもの中島テイストで、軽妙な会話で繋いでいくものだったのではないかと思う。
     ところが実際の舞台では「軽妙な会話」が微妙に「会話にならない会話」にずらされていた。一人一人の「説明台詞」が異常に長いのである。誰かが一通り、台詞を言い終わらないことには、相手の台詞に移行しない。つまり「受け答え」の回数が、いつもの中島脚本に比べて、極端に減らされているのだ。橋田寿賀子の『渡る世間は鬼ばかり』の長台詞シーンを思い出していただければどんな台詞のやり取りだったか、見当は付くと思う。

     要するに、役者が「台詞の受け答えができない」「会話に自然な間を取ることができない」ことが判明した時点で取られた苦肉の策だということである。
     「ホランド」とは何か? 一人一人の証言が食い違い、その正体が混然としていく展開は、まるで黒澤明『羅生門』(原作:芥川龍之介『藪の中』)を彷彿とさせるが、観客を混乱のままに置いてきぼりをさせないために、脚本の橋本忍と黒澤明は、語り手である杣人、僧侶、下人を用意する。彼らが混迷の意味を整理し、その疑問点を提示する役割を担うことで、観客を放置せずにちゃんと次の展開に導く働きをしているのだ。
     しかし、その「物語」どころか「台詞」を受ける基本的な技術すら、福岡の演劇人にはない。彼らにできることは、今、目の前に与えられた台詞をただ暗唱するだけだ。最低限の「受け」の演技の基礎を教え、鍛えることが時間的な限界だったとすれば、物語の「構造」は犠牲にならざるを得ない。
     おそらく、中島かずきの元のシナリオの中には、混乱の中で正気を保とうとし、懸命にその不条理を解き明かそうと悪戦苦闘する「主人公」がいたはずである。浮足町に巣食う魑魅魍魎に対抗し、彼らの跳梁跋扈を「受けて立つ」キャラクターが存在したはずである。それがスラップスティックを混乱のままで崩壊させず「物語」として成立させるための基本的な方法であるからだ。
     そして、そんな主人公を演じられる役者は誰一人いなかったのだ。

     漫才的なボケツッコミは中島かずきの十八番だが、要所要所でそれを担当していたのは殆ど池田成志である。絶妙の間でツッコむのはプロにしかできない技だが、全ての場面に池田成志が出るわけにもいかない。他の役者にボケツッコミを任せざるを得ないシーンでは、格段にレベルが落ちてしまう(池田が出ていた場面でも、相方の役者が間を外して、池田が「コントってのはなあ!」と素でガックリする場面すらあった)。
     地元の役者の中で、特に演技力のないある俳優は(でも福岡ではそれなりにキャリアがあって巧いと勘違いされている)、特に受けの演技ができず、間を外してばかりで、何度ツッコんでもまるで笑いを取ることができなかった。最後は一人ボケツッコミを三回くらいやらされていたが、それも完全にハズしていた。

     池田成志にしたところで、稀代の名優、とまではいかない。舞台によっては、役どころを間違えて中途半端な演技に終始することもある。しかし、今回は、舞台上でもリーダーシップを取っているのが彼であることが明白に分かった。他の役者が、懸命に池田成志に追随しているのが分かるのだ。福岡演劇に自分あり、みたいな根拠のない自信を捨てた分だけ、これまでの彼らの舞台に比べれば、まだマシになっていたと言えるだろう。 

     『浮足町アンダーグラウンド』の公演パンフレットは前代未聞だった。
     池田成志と内藤裕敬との二人で、今回の出演役者陣をディスりまくっていて、九州演劇人がいかに演技の基礎も知らないままに「客から金を取れる芝居を作っていないか」を具体的に指摘した資料であり、『浮足町』を批評する上では必読であり、福岡演劇の事情を知る上でも、広く読まれてほしいと思う。
     これを引用するだけで『浮足町』について充分語れるほどなので、批評も必要ないくらいだが、ある程度詳細に説明すれば、福岡の演劇人の最大の欠点は、「関係性を考えていない」点にある。
     演劇のドラマは「関係性」を無視しては成立しない。これは基本中の基本だ。演劇の勉強を少しでも齧ったことがある者なら、誰でも理解しているし、それを舞台で再現することを目的としている。ところが福岡の演劇人は、それを全く知らないまま、舞台に上がっている。そりゃ、学芸会にしかならないのも当然だ。

    (前略)
    内藤:役を自分に近づけるんだよ、みんな。自分の許容範囲でどうこなすかということを考えている。その方が無難だし、自分がだめだというレッテルを貼られないためにはそうやっていくのをどっかで身に付けてる。今のお前じゃだめなんだよ、今のお前以上でやらないと成立しないんだよ、そこまでいけよってことを言ってるんだけど、まだ…(この対談は8月16日ごろ)。
    池田:しかもそうやるためには、内藤さんもいつも言ってるんだけど、人の話を聞かなきゃいけない。たとえばこう押す力が強かったら、強く返される。反作用を利用しないで、自分一人でやってる。それは大基本だけど、今までどうしてきたんだろうって、こっちもイラッと来ちゃう。
    内藤:そうやってこなかったら残って来れなかったというのが状況として福岡はあると思うんだよな。ちょっと目立つとかちょっと人と違うとか。結局、だから自分が何をやるかってことばっかり見てて、相手役から何をもらうかってことを見てない。
    (中略)
    池田:そう。本当は一番面白いのは相手の反応を体験して自分が変わるってこと。そう語ってるけど感応しないんだよね。
    内藤:それは稽古中に認識してくるとは思うんだよね。個人差がある。押しなべて全員にダメ出しをして、みんな人のダメ出しも聞いてるんだよ。自分のダメも人のダメも共有している。だけど結局、それでハッと本人が気づくかどうかが問題なのであって、なんぼ言っても気付かないやつはいつまでも気付かないからね。気付けるかどうかが才能なんだよ。
    池田:今回ね、こんなに怒るつもりは全くなかったんですけどね。僕は「もう一回」って言われたらなるべく次は変えて演じてて、こう変えても成立するんだとかなるべく見せてる……。
    内藤:やってんだけどな(笑)。
    (中略)
    内藤:「表現すること」と「されてしまうこと」ってあって、今、成志君が必死に言ってるのは、お前らが準備して頭でこねくり回して用意してるっていうのは「表現されている」んだと。表現しようと思ってもなかなか表現できない。自分が表現されてしまう。人前に立ったならば、他者に対して自分が表現されてしまうから、例えば誰かが演説してるの見たら、こいつインチキだとかうさんくせえとか表現されてしまうわけよ。自分ってものが表現されてしまうものならば日常的に俳優として自分を磨いていかなければ、自分は底が浅いとか安直に考えているとかが表現されちゃうよと。
    池田:今日も言ってましたよね。「俺よりも優れている人はいっぱいいるんだ」と。でもあまりにも当たり前だから、俺、途中まで聞いて「そんなやついなかった」と言うかと待ってたけど(笑)。
    内藤:根拠のない自信で現在があるんですよ。ここまで来れたから。自信は持ってなきゃいけないんだけど、だけど根拠がないわけだから物凄く不安なわけよ。だからこういう企画に応募してきてチャレンジするわけよ。だけどやってみると根拠のない自信の部分を指摘されると逆に守りに入っちゃって、そっから出てこない。一番痛いところだから。
    池田:私がこうやっちゃいけないという真面目さがあるのね、九州の役者は。でも真面目って言うより、臆病なだけだとしか俺には思えないけど。
    (後略)

     役者陣、相当、厳しいダメ出しをされたらしいが、それでも公演までに「間に合った」レベルにまでは達していない。
     同じくパンフレットの「稽古場日誌」では、役者の一人が(これまた30代で経験がないわけではない)、「何でその動きをしたのかと言われます。細かい反応を一から確認していく作業。それが基本なんだなと最近分かり始めた」。なんてことを口にしている。
     こいつ、おんなじことを以前、うちの妻から言われてたはすなんだが、その時もよく分かってなかったようだから、今度もどうせ忘れるだろう。これが「演劇は関係性から生まれる」という基本も理解できていない、福岡の演劇人の実情なのである。

     役者の演技に期待できない「引き算の演出」だから、ある一定以上のレベルには達しようもない。内藤裕敬の演出を批判する気になりにくいのはそのためである。
     福岡の演劇人に、「自浄作用」を求めるのは難しいのだろう。繰り返すが、マトモに演劇を志したいのなら、この不浄の地を離れることだ。福岡にいたって、「取り巻き」の言うことをハイハイと聞いていなけりゃ足を引っ張られる。特に「あの連中」、自分の気に入らないやつらには容赦ないからね。そんなこんなで、福岡はすっかり「福岡演劇村」になっちゃってるんだから。

     これでもう完全に、福岡の演劇はどこも観に行く価値はなくなったと判断した(今回も義理で観に行っただけである)。
     大野城まどかぴあも、地元から演劇の活性化を、なんておこがましいことは考えずに、普通に東京から芝居を招聘するにとどめた方がいいんじゃないか。コンクリートの上に種を撒いても腐るだけである。

    注:ネタバレ部分の引用はお避け下さい。パンフレットの詳しい内容を確かめたい人もいるでしょうが、そこはツテを探してください。
  • 満足度

    何を思えばいいかわからない
    特に後半がつまらなかった。
    前半は作品の導入部で「ホランド」とは何なのか? と観客に謎を提示するが、後半、その謎が解かれたとは言えない。
    勿論、謎が解かれないままの作品もあるが、これはそういった種類の作品ではないと思う。
    後半ははっきり言って意味不明。ストーリーなんかどうでもいい、となっていく。見ている方は演じている人々が何をしたいのか、これにいつまで付き合わされるのか、とだんだん嫌気がさしてくる。

    役者陣は頑張っていたと思う。演技にそれほど大きな違和感を感じなかった。しかし、機械的な間が多く、生きた間がとても少なかったのは残念だ。


    作者降板についてだが、公演前はなぜこんなことが起きたのか色々考えてしまったが、公演を観、パンフを読んだらある程度推察できた(ような気がした)のはなんと言ったらいいのか。
    また、作者降板と払い戻しについて周知徹底が今一つされていないように感じたのは残念だった。

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