ストリッパー物語 公演情報 昭和芸能舎「ストリッパー物語」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    昭和とつかとキャンディーズ
    音曲の割と中心だったキャンディーズが「昭和」だからなのか、つかの時代という事なのか、台本指定なのかは知らねど、平成も30に届こうという今では伝説化も自然なことだ。経済成長、無垢な平和感覚、日本という国の「性善説」的幻想が昭和という描写の中にありそうだ。 実はそれは多くのまやかしの上に建った城で、今や無残に瓦解した日本という姿を私たちは見ているという事なのだろう・・。
    つかの描く「生」はその情熱の対象として学生運動も恋愛も変わりない、というビジョンに貫かれている、と感じた。(つか作品観劇はまだ3度目。)
     本劇団の特色というものはあろうけれど「つか」色なのか劇団色なのかが、判別できない。雨に唄えばのタップ・ダンスは劇団色だろうし、役の掘り下げより「ノリ」優先、と見えるのも劇団の色合いに違いないが今回はBグループ鑑賞、主要配役が変っているAグループも見て確かめたくなるが、今回は見合わせ、Bで判断するしかない。
     ・・まぁそんな事で「つか」の世界を垣間見に足を運んだのだったが、彼以前のアングラが時代の生み落とした「現象」であったように、つか的なもの、そしてそれを観客が熱狂して迎えた「演劇」状況も、「時代」が生んだものだろう・・。それは何だったのか、と。。
    学生運動は所謂「一般社会=世間」と断絶して(ちょうど現在の反原発などと同様なのかな・・)、「歯向かう側」は息が苦しくなる。それと並行して彼らに同調的だった者も、自分らを「勝利」へと導いてくれなかった恨みと反動から、背を向ける。運動が先鋭化し、「正論」を吐くしか行き場がなくなってやせ細る「運動」の者たちを、その正論ゆえに忌避するようになる。なぜならその正論はもはや「負けた」のであり、しかし倫理的には正しく、その矛盾の間で苛立ちが生じるからだ。
     つかは「前世代」つまり運動に情熱を傾けた世代の感覚を、相対化し、芝居の中でそれにも「言及」しながら、それを全く別の文脈で語るということをやった(スルーするのでなく、当世について語るという演劇としては自然な作業をやっている訳だ)。
     時代は巡って、「運動」の需要のほうが高まっている。が、弱体である。「つか」的なアプローチが、当時のような形で劇的に迎えられるには、時代が違いすぎる・・というのが正直な感想だ。・・という事が言いたかった訳だ。
     しかし・・人物に純粋な愛を語らせ、それを茶化しながら、それを切望する自分自身を発見し、告白する・・ 台詞の力を認めない訳には行かない。 人を愛することと、自分が何ものでもない、ちっぽけな人間である事が、同時に成り立つのは、その事を己が知っていること、そして言葉を惜しまず愛を伝えるという「行動」こそ、愛の内実について内省することより重要で価値あることだと、つかこうへいはやや出来すぎたドラマ設定を借りつつ檄を飛ばす。
     私には少し甘口に感じられる世界だが・・ 妙な、否、しかるべき説得力のあるドラマ世界だった。
    「俳優」への印象がさほど残らなかったが、戯曲世界、台詞の力に密かに衝撃を受けた。

    0

    2016/08/06 02:37

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大