満足度★★★
戦争は青春を描く禁断のキャンパス
まず一般論から。「戦争」を描いているようでいて、それが話を盛り上げる背景、あるいはドラマの従属品に過ぎないような作品は数多ある。無益で非合理な戦争の実態をあぶり出す「意図」はあっても、時代を生きる「人間」は美しく描きたい、人間を信じたい、己の祖先を悪し様には描けない・・こうして戦争の「醜悪」と掛け離れたファンタジーに収まる、というパターンも多々あるだろう。書き手の「良心」は疑わないけれど能天気にしか思えない「よくあるパターン」の一つは、十五年戦争や戦争体制の時代を想起させるキーワードを織り込み、あとは観客の中にそのイメージが滲み出すにまかせるやり方。観客は何となく厳粛な気分にさせられる。「それも有りでは?」と思われるかも知れない。だが「先の戦争」や「戦前」に対する既にある社会的記憶にオンブして、自身の「解釈」が語られないのは何も語っていないに等しい。しかもそれは現状を追認する行為にとどまっている意味で、ある見方からすれば害悪だと言えなくない。
日本での「戦争」に対する最大公約数的なイメージは原爆、空襲、食糧難といったもので、確かにこの社会的記憶を折々に喚起することは、人の命に厳粛な思いを至らしめる時間の提供という意味はあるだろうし、現状では最善だと考える道筋も分らなくない。だが「被害」に偏った社会的記憶を誘引するだけでは、変化は起こらない。
そもそも戦争を忌避する理由は「殺されない・苦しまない」事のためでなく、まず「殺さない・苦しめない」事のため、であるべきだ、と思う。後者を理由としてはじめて、かつての日本が「被害を受ける」前に行なった累々たる「加害」が無視できなくなる。敗戦直後の日本人は戦争に「負けた」責任を為政者に問うた。無策を問責したのは良いが、では勝っていれば良かったのか。いずれにせよ日本は敗北を抱きしめて戦後を歩み出した。心地良い「被害の歴史観」に浸ってきた日本人だから、自国の行なった非道の事実を否定する論は今、相変わらず喧しく、また罷り通っている。
例えば、演劇をやるために「戦争」を語るのか、戦争を語らざるを得ない状況だから演劇を手段に選んだのか。二つは似て非なりといえども、同一創作者の中では折り重なり同衾していることだろう。
しかし戦争を語る芝居を見るとき、私はこの点を見極めずには居られない。で、恐らく、的確な評価眼を持つ人はそこに演劇の質がかかっている事を見抜くだろう。
そこだけ整理しておきたい。‥戦争は「事実」に属するが、ドラマにとってはその深刻さに価値があり、しばしば利用される。そしてその重みは「事実」である事に裏付けられている。ただ、現在「事実」は公然と揺るがせに遭ってもいる。また演劇も、必ずしも事実でなくとも「事実という事にして」仮想の話として楽しめてしまうエンタメの要素を持っている。「戦争」に関わる事実の場合、事の性質上、当然ながら事実性が重要になるが、エンタメの成立のために「戦争」が消費されるに等しく扱われる場合でも、批判を覆して余るだけのメッセージ性、感動のある作品になっているかの評価の秤にかけ、「事実の裏付け」の欠陥を不問にできる場合もきっとあると思う。だが「事実」である事の重みに着目してドラマに活用するのであれば、事実の真偽、その意味、それらに対する解釈を、せずに過ぎやることは許されないと思うのだ。
長大な前置きになったが、今回の「闇のうつつに」は如何。