体夢-TIME 公演情報 劇団桟敷童子「体夢-TIME」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    引き裂かれた夢
    まさに夢のように中心の物語から逸脱し様々に広がっていくイメージが面白かった。
    私は古くからの桟敷童子のファンではないので、昔の作風は知らないが、近年の作風からすると少しテイストが違う。
    平たく言えば、幻想奇譚というか、シュールレアリスム的世界。
    そのチャレンジ精神が素晴らしいと思う反面、強度としてはいつもより弱い印象。
    と言っても、このどのようにでも解釈できる世界を、そして多義的に張り巡らされたコードを、観劇後に色々と思い出し、考え直したら、観劇中にはわからなかった発見もたくさんあった。まるで夢解釈のような作業。
    解釈に頭を悩ませるという二次的体験も含めて、珍しい体験ができた。
    何より、今まで採用してきた方法と違う試みをするという姿勢が素晴らしいと思う。そして実際に新たな表現が見出されていたと思う。

    ※12/15:ネタバレの最後に追記しました。

    ネタバレBOX

    極めて多義的な作品なので、物語として一義的解釈しようとすることを作品自体が拒む。また、それを無理やり行うことは世界を矮小化することにしかならない。
    と言っても、それでは語りようもないので、敢えてその愚を犯し、ある一面から物語化し、私が考えたことを書く。

    世界に謎の疫病が流行し、終末の刻が近づく。
    その疫病は人間からあらゆる欲望を奪い、人を無気力にし、知性や感情すらも奪ってしまう。つまり抜け殻にしてしまうのだ。(と言っても、微かな感情は残っているようでもあるのだが。)
    それを食い止めるべく体夢がすべての疫病を呑み込むことで、世界はまた平静を取り戻すという未来が待っている。だが、元に戻ると再度人間は奪われていた欲望や利己心、悪意の限りを尽くすようになる。そんな世界を見るのに耐えられなくなった体夢は、再度疫病を野に放ってしまう。すると、またその疫病が大流行し、それは体夢が愛する妻にも襲いかかる。体夢はなんとか妻を救おうと試みるが、その時にはもはや疫病を抑える能力は失われている。そして妻を救うことはできないことに絶望し、記憶を失い狂人と化していく。
    自分(体夢)が疫病を呑み込んで世界が平静を取り戻した段階で自分(体夢)を殺せば、妻は疫病にかからなくてすむと思った体夢は、過去の自分を殺そうとする。それは自分の命、自分と妻との出会いも失われるが、それでも妻を生かしたいと体夢は望む。
    (その未来の体夢は「青二才」、記憶を無くし狂ってしまった体夢は「狂人」と呼ばれ、劇中に3人の体夢が存在するのだが。そこには、タイム、つまり「時間」という意味も付与されている。)

    これは物語の一部を取り出したものだが、この作品に描かれた「疫病」とは何なのか。
    作品内では、必ずしも悪いものというだけではないように描かれている。勿論、悪いものにも見えるが。それは、その核にある人間の「欲望」そのものが、「気力」という良い側面と、「我欲に満ちたもの」という側面の両方を有しているのと同様である。「無気力」である反面、「ある純粋性を有している」と。
    この構造の複雑さは、この二つの対立概念自体が、社会状況などと重ねて解釈しようとした場合にも、オセロのように二転三転してしまうことだ。
    国民は総白痴化しているということか?批評性も主体性もなくし、ただただ従順に振る舞う。もはやこの社会は疫病にかかっている?だが、純粋であることは悪いことなのか?むしろこの世界を支配している欲望が世界を滅ぼすのであり、疫病にかかっている者こそがむしろ世界を救うのではないか?いやいや、純粋無垢こそ我欲に溺れた者の慣れの果ての姿だろう、、、というように。
    (私が観たのは衆議院選挙前日、そういう意味でもとても感慨深い。)

    東憲司作品の本質はそのアンビバレントにあると前々から思っていたが、
    この作品ほどその対極にあるものが引き裂かれたまま提示されているものもないのではないか。そういう点でも、とても興味深かった。

    唖(に周りの人には見える)の体夢がしゃべろうとすればするほど、誤解しかされないというのも、現代の社会状況を象徴している。また、痛みを負った少年二人の間では、その言葉が通じ合えるというのも。
    また、人が良く、損しかしてないゲノリ一等兵が、ひょんなことから権力を持ち、ヨギ議長に「お前は権力を持っただけで、偉くなった訳ではない」という主旨の台詞を言われ、さらにその権力からも引きずり降ろされ、手足をもぎ取られ、最終的には殺されるなども印象的だった。
    共に東憲司氏の声なき者、弱き者への視線を示していると同時に、それも必ずしも一義的ではないというのも素晴らしいと思った。

    蛇足だが、デビッド・ボウイやクラウス・ノミなど、ありものの曲を使うというのも妙に新鮮だった。(私も中学生の頃、よくそういう音楽を聴いていたので(今でも好きだけれど)、妙に青年期の感覚を刺激された部分もある。)
    ボウイの「タイム」がテーマ曲のように使われているが、
    どちらかというと、同性愛者であり、エイズにより39歳の若さでこの世を去ったクラウス・ノミの「The Cold Song」の方がこの作品の真のテーマ曲なのかと思う。
    体夢も基本的には同性愛者という設定であり、唯一愛した異性が妻だったということなので。この性に対しても引き裂かれている点も興味深い。
    また、その流れで言うと、
    集団強姦によって母の体に宿ったのが体夢であり、そして母は殺された。その母の恨みを晴らすことが体夢の生きる目的だった。恨みを晴らす敵が自分の父でもある。しかし、その父は疫病を畏れて自殺してしまう。体夢は幼少にして生きる目的を奪われてしまう。このような引き裂かれ方も凄いものがある。

    夢を思い出すように、色々と芋づるで出てきてしまうので、この辺で、、、。

    いずれにしても、とても面白い演劇体験だった。

    <追記:12.15>
    この疫病について、ふと最近の「さとり世代」に代表される現象と重なっているようにも思った。欲望(性欲、出世欲、物欲、、、)を失っている若い世代の現象と。古い考え方の者からは、批判されることも多いこの「さとり世代」(草食系なども近い概念)。だが、果たして本当に悪いことばかりなのか、、、。勿論、全肯定できる訳でもない。この微妙な感覚、まさにこの劇の中の疫病とそっくりである。

    0

    2014/12/14 12:07

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大