桜の園 公演情報 ミクニヤナイハラプロジェクト「桜の園」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「桜の木」とは何なのか
    桜の木から広がり、見えてくるもの。

    ミクニヤナイハラプロジェクトには、「美しい思想」があり、その奔流に「思考」が刺激される。


    前半はにしすがも創造舎の外の広場で、後半は体育館のほうで行われる。
    入口でロックフェスのようなリストバンドとマスクを配布されるが、マスクは着けることをオススメする。
    外は結構寒いのでご注意を。

    ネタバレBOX

    「立場が異なれば“正義”も異なる」ということストレートに見せた。
    「ストレート」なのだが、それを中心として、作品の中に散りばめられた数々の事象を、拾っていくと、それだけでは言い表せないものへと広がっていった。
    「ストレート」と書いたが、もちろんその見せ方は、ミクニヤナイハラプロジェクトらしい、独特のものだったが。

    ……以下、一気に書いたので、文章が散漫となっていると思う(いつものことではあるかもしれないが)。
    あとで少し書き直す可能性もあることを記しておく。

    前半は体育館の上、広場の中の足場、通常の入口近くにある建物の上の3個所に分かれて、上演を開始した。

    3個所は微妙な距離にあるので、同時には台詞を聞けないし、聞けたとしても、台詞も重なっているので、聞き取ることは難しい。
    「どれか1つ選んで聞いてほしい」というようなことが入口で配布された紙に書いてあったが、とりあえず、全部を聞いて回ってみた。

    3つのグループの構成は次のとおりである。
    1つめは、「緑を守る会」のグループ。都市開発で切られてしまう桜の木を守りたいと思っている。
    2つめは、その桜の木がある緑地公園の土地所有者。すでにそこには誰も住んでおらず、その土地を売りたいと思っている。
    3つめは、都市開発を進める業者。桜の木は切らないで植え替えると主張している。
    前半の野外では、グループ内での話が中心である。

    1つめのグループは、「緑を守る会」で唯一残ったメンバーとそれを取材する記者で、記者は会のほうの主張をすべて鵜呑みにしているわけではないことが明らかになっていく。
    2つのめグループは、開発業者2名と弁護士で、のちにわかるのだが、弁護士は「正義と多数」に疑問を感じている。業者2名もこの案件に対する温度差がある。
    3つめのグループは、土地の所有者と、霊能者。霊能者がなぜいるかと言えば、桜の木を切らないでほしいと訴える100年前の先祖が、土地の所有者のもとに現れてきていて、それに対抗するためである。

    このように、グループ間のぶつかり合いだけではなく、グループ内でも温度差や意見の相違があるのだ。

    野外での上演の最後には、ハンドマイク・メガフォンで3つのグループが相手に主張を述べ、屋内へと続く。

    したがって、屋内はグループ間の応酬が中心となる。

    先にも書いたが、弁護士の述べる「どちらが正しいのか」「多数が正しいのか」という問い掛けは、グループ間とグループ内での関係を表しているようだ。
    つまり、「総論としては賛成・反対」という立場をそれぞれのグループは採っているのだが、その内実は、微妙にあるということ。
    例えば、地主グループでは、祖先の霊は「桜の木を切ることに反対」であるが、実態のある所有者のほうが「強い」ので、グループとしては「土地を売りたい=桜の木は切る」となる。
    また、開発業者グループは、開発業者に雇われた弁護士なので、自分がどういった意見であれ、依頼主の意向に従う。
    さらに、緑を守る会のグループでは、会の女性は取材対象なので、記者には決定権自体がない。

    このように、三者三様の意見(正義)が、細分化することでさらに枝分かれしていく。

    民主主義は、多数決が基本である。
    もちろん少数派の意見も尊重することが前提ではあるが、最後は「多数派による専制」ということが起こり得る。
    いつまでも少数派に拘っていると先に進まないからでもある。

    そのために「議論の場」が必要なのだ。

    この舞台では、屋内が「議論の場」にあたる。
    しかし、「議論」にはならない。
    自らの主張を曲げることなく、一方的に進めるからだ。

    「もう誰も住んでいない土地なので売ってしまいたい」「仕事なので、早く収束したい」「失ってしまった故郷として、ここを残しておきたい」というように、そもそものベクトルがすれ違っている。

    業者は「桜の木は切らず、移植する」と言うが、緑を守る会は「枯れてしまう」と譲らない。
    平行線でまったく話にならないのだ。

    緑を守る会が開発業者を相手に説得する中で、奇妙なたとえ話が出てくる。
    ジャガー(jaguar)やタイガー(tiger)は、「−」が「r」だけど、チーターは(cheetah)と「h」で終わるというもの。
    開発業者は、緑を守る会の人が、何のことを言っているのかわからないので、理解しようとする。

    また、開発業者が野球のたとえ話をする。
    「9回裏、1アウト、1・3塁で、バッターが打った球を捕ったあと、どこに投げるか」というもので、土地の所有者は何度言っても「1塁に投げる」と言う。
    それでは負けてしまうのにだ。

    この2つのエピソードから見えるのは、「議論の不毛さ」である。
    相手に伝える気持ちがなければ、伝わらないし、ルールの中であっても、自分がやりたいことを押し通してしまえば、相手の伝えたい意味が受け取れないということではないか。

    そもそも「r」と「h」を使う「ルール」とは何か、「野球の勝ち負けのルール」とは何か、というところまでも含めて考えてしまうと、その「前提」、「立つ位置」が異なれば、受け取り方も考え方も異なってくるし、どれが「正しいのか」はまったく意味を持たなくなる。

    彼らの「桜の木」問題から少し視線をそらしてみる。

    土地の所有者の100年前の先祖だ、と主張する霊が現れる。
    そこで見えて来るのは、「未来」のことだ。

    野外でも「戦闘機が」のように、開発業者が台詞を言っていたので、これは「基地問題」を絡めているではないだろうか、と思っていた。
    しかし、屋内に入り、彼らの台詞がきちんと聞こえてくると、「プルーインパルス」であること、それが「5機編隊」であることがわかってくる。
    もちろんブルーインパルスはアクロバットチームであり、戦闘集団ではない。

    そして、「5機編隊」にヒントがある。
    つまり、1964年にプルーインパルスは、国立競技場上空に5色の輪を描いた。
    すなわち、先の東京オリンピックのことである。

    先のオリンピックでは、新幹線ができ、首都高ができ、都内のゴミ収集システムが完備され、インフラを中心に大きく変わった。
    次のオリンピックにはどうなるのか? ということだ。
    先のオリンピックは高度成長時代だったので、あらゆることがオリンピック優先で行われ、まさに「多数決」で「少数派」は切り捨てられてきた。
    それが「正義」だったのだ。

    果たして次のオリンピックに向けて、「多数派」でコトを行うのが可能なのか。
    「正義」はどこにあり、「少数派」は切り捨てられてもいいのか、という問題提起が、ここにあったのだ。
    オリンピックという「大多数派」が「正義」になってしまう可能性。
    弁護士が力説していた「多数」と「正義」の関係がここでも意味が与えられた。

    「桜の木」に象徴されるのは、「失ってしまった故郷」「金額的価値」「仕事としての象徴」である。
    東京のあちこちが、それらと引き替えになるのが、これからの6年間の出来事だろう。
    「引き替え」にすることが「正義」なのか、どうかの「正解はない」。
    正解は「議論の場」のみに、現れてくるのだ。
    そして、「議論の場」での振る舞い方は、この作品での三者三様の態度ではならないのだ。

    ラストはたった1人で、舞台の上に残されてしまった、緑を守る会の人。
    桜の木は(たぶん)移植されることになるのだろう。
    たった1人残ってしまった「意見」の「行き場」はどこにあるだろうか、と思わざるを得なかった。

    この作品では「桜の木」が象徴として扱われていた。
    その「象徴」というものの、「欺瞞」も感じてしまった。

    この土地が開発されるとすれば、本来は「土地」に対しての想いがあるのだろう。しかし、「桜の木」にそれを集約してしまった(「象徴化」してしまった)ことで、本来の「意味」がわかりにくくなってしまうのだ。
    こうしたことは、あらゆる場所で行われている。
    それもここでは述べられているように感じた。

    ミクニヤナイハラプロジェクトの作品には、作品の見た目の「美しさ」と、役者が「動く」(行為)の「美しさ」がある。

    例えば、屋内の大量の落ち葉、屋内に入ったあとの映像、桜の木を思わせる、大量の白い風車、そして、見事な照明、どれをとっても美しく、素晴らしいものであった。
    例えば、舞台上での役者が時々刻々と変化させる位置と、その動き、それらの重なりという3次元的なものに、さらに台詞、効果音(足音も含め)という4次元的な事象が加わり、感動を与えてくれる。

    白い風車は、軽く深読みすると、風が吹けば、一方向にみんなが回ってしまう、という意味だろう。
    「多数とは何か」ということだ。

    また、単に美しいだけではなく、必ず「考える」ための「ヒント」がある。
    美しさの間から、役者の身体や台詞、その総合から立ち上る「(美しい)思想」に「思考」が刺激されする、それが楽しいのだ。

    役者の皆さんの動きが凄すぎる。
    ミクニヤナイハラプロジェクトの作品の中でも、今回は、より過酷なものではなかったのか。
    しかし、それを見事に演じて見せてくれた。
    素晴らしい!
    大きな拍手を送りたい。

    その中でも特に印象に残ったのは、身体も台詞のキレのいい山本圭祐さん、軸の立ち方がよかった鈴木将一朗さん、全体が激しいうねりの中にあって、同じように演じているのに、静けさを感じた笠木泉さんだ。

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    2014/11/14 07:43

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