ロケット・マン 公演情報 劇団鋼鉄村松「ロケット・マン」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    愛は光速を超えられるか
    『ロケット・マン』とは、劇団鋼鉄村松自身のことであり、観客へのメッセージでもあった。

    2時間惹き付けられた。

    ネタバレBOX

    地球が1つの国になったぐらいの未来の話らしい。
    ロケットで光の速度を出そうという、プロメテウス計画がある。
    それに一生を捧げたロケットマン(宇宙飛行士)と彼を取り巻く人々の話。

    ウラシマ効果で、宇宙に飛び立ったロケットマンは年を取らない。しかし、地球に残された家族や友人たちは、彼が地球に還るたびに年を取っていき、最後には彼は1人になっていく。
    孤独と向き合うためなのか、宇宙に行くたびにロケットマンたちは、喜怒哀楽の感情が薄れて、クールになっていく。

    主人公のロケットマン、カーフは、宇宙飛行の前に、家族には「この飛行が終わったら、宇宙へは2度と行かない。地上にしがみついて生きていく」と言いながらも、宇宙に取り憑かれたように、何度も何度も宇宙に出ていく。
    そして、最愛の家族を失ってしまう。

    息子の代になり、その子どもの代になっても、カーフは宇宙に飛び出していく。
    ロケットマンになった者の宿命のようだ。

    しかし、彼が本当にたどり着きたかったのは、「彼が愛して」、そして「彼を愛した」者たちのところだった。

    質量のある物質は光速になることはできない、ということが確実になったあと、1つだけ光速を超えることが可能になることが発見される。
    それは、「人」としての形を失うことなのかもしれないのだが、カーフは新しいプロメテウス号に乗り、行くことを決意する。

    冒頭のいくつかのシーンを拾い上げながら、カーフは愛する者の前に現れ、消えていく。
    史上初のロケットマン、犬のライカとともに。

    このストーリーには、いくつかの「真実」がある。
    人は本当に自分が求めていることに対しては、どこまでも本気になれるということ。
    そのことでひょっとしたら家族や友人を失うかもしれないということ。
    しかし、家族や友人のことを忘れたわけでは、決してないということ。
    何度か出て来る「宇宙にいるときは地上のことを想い、地上にいるときは宇宙を想う」の台詞がそれを語る。

    そして、「最後に戻る場所」は「愛」のあるところだということ。
    「戻る場所」とは「帰る場所」ということではない。
    「いつも」心の奥底に「ある場所」で、人の「心の支え」になる場所ということだ。

    「自分の進みたい場所」と「愛のある場所」は二者択一ではない。
    つまり、どちらかを選ぶのではなく、「自分が進みたい場所」に向かうには、「愛のある場所(こころの支えになる場所)」が必要であり、また逆も真であるということなのだ。

    ロケットマンのカーフは、光速を超え、愛のある場所(過去に)戻って行った。
    それは、カーフの中での気づきである。さらに言えば、カーフの妻だった女性も、妻になる女性も「知っていた」(感じていた)ことなのだ。

    カーフの妻になる女性は「少女」、カーフの妻になった女性は「女」としか役名がない。とても大切な役なのに「あえて役名は付けなかった」のではないか。
    つまり、彼女たちは、名前を付けることでカーフだけの「愛のある場所」をにしてしまわず、観客に向けての「メッセージ」としての「象徴」にしたのではないだろうか。

    「自分が進む場所と留まる場所(愛のある場所)の2つは相反するものではない」というメッセージなのだ。
    カーフの求めていた場所も、「戻った」場所ではなく、「先」にあった。

    鋼鉄村松は今年20周年だったらしい。
    その記念公演でもある。
    その公演に、再演でもある『ロケットマン』を選んだ理由がこれにあるのではないか。

    失礼な言い方をしてしまうが、鋼鉄村松の皆さんは、これで食べているとは思えない。
    しかし、「演劇」を続けている。
    彼らは、「光速を超えようとするロケットマン」なのだ。
    「質量があるものは光速にならない」と確定しても、「イエーガーの壁」が前にあったとしても、「演劇」を続けることを選んだ。

    「この公演が終わったら、もう舞台には立たない」と家族に毎回言っているのかもしれない。
    「公演」のあとには、観客にはわからない「ウラシマ効果」があるのかもしれない。
    しかし、公演は続ける。
    そして、それと「愛のある場所」は二者択一ではない。
    両方があって成り立つものなのだ、ということだ。

    冒頭の、宇宙犬ライカのエピソードが効いてくる。
    ライカの乗った人工衛星は「スプートニク」という。
    「スプートニク」は「同行者」「道連れ」という意味である。
    カーフとのちに結婚する少女に、その意味を告げに行く、というシーンはこの作品のテーマに結び付き、胸に迫るシーンとなるわけだ。

    そして、「出ていかなければ見えないモノ(世界)」もある。
    劇中では、それを「光速に近い宇宙船から見える外の景色」として表現していた。
    地上にいては絶対に見えないものなのだ。

    だから、「出る」。
    本気になったから「出る」。

    これは何も「演劇をしてる人たちだけ」へのメッセージではない。
    どんな仕事をしていても、本気でそれに取り組んでいるのならば、ぶち当たるかもしれないものなのだ。

    さらに、「“愛のある場所”を大切にしないといけない」というメッセージをも込めているのではないだろうか。
    劇中のカーフのように、過去には戻ることはできないのだから。

    この公演で、いつも素晴らしい演技を見せてくれたムラマツベスさんと村松ママンスキーさんが活動休止に入る(あともう1人は誰なんだろう?)。
    彼らの劇団での最後の公演に、そういうメッセージが込められた『ロケット・マン』が選ばれたのは偶然ではないだろう。

    だから、舞台の上には「執念」のような熱さを感じた。
    ムラマツベスさんと村松ママンスキーさんの、最後の「執念」というだけでなく、演劇を続けていく劇団員たちの「執念」も加味されたのだろう。
    そう感じてしまうのだ。

    全編、テンポの良さ、会話の絡み具合が見事であった。
    舞台に立ち、観客に向かって延々モノローグを言うだけのシーンが多いのに、物語を感じ、引き込まれていく。
    「脚本」や「演出」の良さもあるのだろうが、それよりも役者の情熱のほうが強かったのではないだろうか。
    集団で2時間全力疾走している中で、誰一人脱落者はいない。
    トップスピードの役者の速度、息に合わせ、突っ走っている姿があった。

    客演がこれだけいるのに、この一体感は素晴らしい。
    言ってしまえば、それぞれの役者の力量に合わせて、うまく設計されていたのだと思う。
    長距離が走れない者には、それに合った距離を。速度が遅くなりがちな者には、そうとは見えないように、それに合った速度を。そうしたきめの細かい演出と配役があったからこそ、能力以上の力が発揮できたのだろう。

    演劇はその日その日が違う。生き物のようなものだ。
    だから、観た日が、奇跡のような、特別な日だったのかもしれない。
    しかし、全体の構造がこのようにできているのだから、結果として、どの回も素晴らしい出来だったことは想像に難くない。

    主役のムラマツベスさんが出色の出来だ。
    いつものベスさんで、完全に当て書きであることを想像できるのだが、それでも淡々とモノローグを語りながらも、感情がこぼれ落ちてくる様が素晴らしい。

    出落ちだったり、ワンポイント的な出番が多いイメージの、ボス村松さんも、この作品では総司令官・ハインツをフル回転で演じていた。やはり、例の「容姿」を使った出落ち的なものも入れてきたが、役での「執念」が演技の「執念」とリンクしていたように見えた。
    彼の最後のシーン、「プロメテウスが私の指の間からすり抜けるようにして飛び立っていく」(正確ではないが、そんな台詞)あたりの畳み掛けは、後方の壇上に立つベスさんとの「画」としても、カッコ良すぎた。

    ラストに見せる、カーフとハインツの関係性が素晴らしい。
    グッときてしまう。

    カーフの「年を取ったほう」の「妻」(笑)を演じた日高ゆいさんも良かった。8割世界で見せる彼女とは違い、カーフへの愛情と、そこから来る「待つ女」という内面を、控え目に、そしてうまく演じていた。

    カーフの「若いすぎる(笑)恋人(のちの妻)」を演じた浅倉美桜さんは、声がいい。しかもうまい。おっさん率が高いこの劇団の舞台にあって、カーンと声が響き、特にオープニングの滑り出しが彼女の演技によって心地良いものとなった。

    アームストロングとホルストを演じた村松ママンスキーさんは、かっちりした渋さが良かった。

    もちろんほかの俳優さんもみんな良かった。

    鋼鉄村松は、台詞が過剰までに多い。
    特にバブルムラマツさんの作品は、主人公のキャラをどっしりと立たせ、過剰すぎるセンチメンタリズムに溢れる台詞、モノローグを言わせることが多い。

    今回も、主人公のカーフと総司令官ハインツともに、センチメンタリズムに溢れた台詞を舞台の上に撒き散らしていたが、それは単なる言葉の羅列ではなく、まるで「感情の噴きこぼれ」のようであり、まるで80年代ぐらいの、アングラ芝居を思わせる熱量だったと言っていい。

    鋼鉄村松の特徴は、80年代ぐらいのアングラ芝居とは異なり、そのセンチメンタリズム溢れる台詞のあと、「どうですか!」という「余韻」を持たないところにある。
    非常にクールなのだ。
    細かい内容よりも、耳に残る単語や、音のリズムを観客に届けているのだはないだろうか。
    いちいち、感傷的にさせずに突っ走る方式なのだろう。
    なので、観客によっては、その台詞に「引っ掛かり」を見出せず、延々台詞を聞かされる、退屈な時間ととらえてしまうこともあるだろう。
    それは仕方がない。

    鋼鉄村松はそうすることを選んだのだ。
    彼らは、彼らの方法で「光速を目指すロケット・マン」となったのだから。

    終演後、ふと思い出した歌がある。
    原田知世のデビュー映画の主題歌で彼女が歌った歌だ。
    『時をかける少女』
    この歌詞は、この作品にリンクしているな、と。
    まるでカーフを妻と妻になる者から歌ったような歌詞だ。


    時をかける少女

    あなた 私のもとから
    突然消えたりしないでね
    二度とは会えない場所へ
    ひとりで行かないと誓って
    私は 私は さまよい人になる
    時をかける少女 愛は輝く舟
    過去も未来も星座も越えるから
    抱きとめて

    ゆうべの夢は金色
    幼い頃に遊んだ庭
    たたずむあなたのそばへ
    走ってゆこうとするけれど
    もつれて もつれて
    涙 枕を濡ぬらすの
    時をかける少女
    空は宇宙の海よ
    褪あせた写真のあなたのかたわらに
    飛んで行く
    時をかける少女 愛は輝く舟
    過去も未来も星座も越えるから
    抱きとめて
    (作詞:松任谷由実)

    話は変わるが前回公演に募集したファンクラブは今回限りとなるという。
    残念である。

    2

    2014/11/09 08:41

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  • コメントありがとうございます。
    受け取る側としては、演劇内の出来事だけではなく、演劇の外のことも、つい考えてしまいますので、今回はメッセージとして受け取りました。
    もう1人の作家、ボスさんにも期待します(笑)。

    2014/11/17 11:12

    なんて俺が頑張って誉めて欲しかった所を誉めてくださるんてすか!!ありがとうございます!
    そーですね。メッセージ性はあまり考えずに頭の中でおきた事件をクールに書きたい方なんですが、このタイミングとかいろいろでメッセージを結果こめてしまった所はあります!
    人はそんなクールになれませんね。
    次はもっと面白いものを!ありがとうございました!!

    2014/11/09 11:07

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