一遍 公演情報 風雲かぼちゃの馬車「一遍」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    凱旋で0.5おまけの★5つ
    承久の変で朝廷側につき、力を削がれた河野一族の家系に生まれた一遍は、幼名を松寿丸と言う。仏門に在ったこともある父、通広の計らいで10歳で下男(後に念仏坊)と共に仏門に入るが、この直前に母を亡くしている。

    ネタバレBOX

    今作によれば、母の死は、異母兄、通真の仕業だ。
      何れにせよ、預けられた寺で、彼は早速本領を発揮する。寺の問題児兄妹、大日坊、大月坊と喧嘩したのだ。それはそれとして、その後が、面白い。若い僧の世話役をしている華台が、大日坊、大月坊だけを罰っしようとした時、自分も同じような悪いことをしたのに、片方だけ罰するのはおかしい、と文句をつけたのだ。理屈は無論、一遍にあるので、賢明な華台は、一遍の理を認め、同じ罰を科すことにした。無論、寺を与る聖達にもその旨、報告する。(因みに聖達は、通広の兄弟弟子に当たる)
      一遍のこの真正な態度に大日坊、大月坊は、心を動かされ、友人になった。その後も、4人は、いつでもつるんで悪戯をしていたが、この謹慎期間中は、托鉢に出ることも禁じられていた4人に、兄妹の母が、病に倒れているとの知らせが入った。托鉢から帰って来た仲間が知らせたのである。病が重いのか否か迄は分からなかったが、母を亡くした経験を持つ一遍が一肌脱ぐ。聖達に直訴したのである。聖達は、罰を受けて謹慎の身なのだから、仏門に入った以上、兄妹を里に帰す訳にはゆかぬ、と言い渡すが、華台には、夜、裏口を開けておくよう申しつける。
     さて、病に掛かった母に会うことはできたものの、謹慎期間中に寺を抜けだした罪は罪として償わなければならぬ。罪の詮議をする聖達の前で、互いを庇い合う一遍、大日坊の姿を目の当たりにして、首謀者であると言い張る一遍に対して聖達が言い渡した罰とは、有望な若手僧侶が学僧として全国からも海外からも集まる太宰府へ華台と共にゆくことであった。一遍は、華台と共に、大宰府へ赴くが、ここで生涯のライバルとなる兵部堅者重豪と出会う。
    一遍25歳、父の死を契機に還俗して、従兄の超一房と所帯を持ち子を為した一遍であったが、一族の所領争いなどがもとで、再度出家する。(因みに、水軍とは言え、一党は有力御家人の血筋。即ち武士である。武士階級が守るべきは二つ。所領安堵と一族の血を絶やさないことである。そのためにこそ、一遍の父(朝廷方)と実兄は敵味方に分かれて争ったのであり、通真の目の前で、伯父(鎌倉幕府方)が彼の実母を切り殺したにも拘わらず、その後、怨みつらみは、ないことにして、通広と実兄、通久は和睦を結ぶのである。通広にしてみれば、自分の妻をその手で殺した実兄との間のことである。だが、このような経緯が認められる時代であったからこそ、一遍の妻は、通久の娘でありえたのだ。ここで、蛇足を一つ。一生懸命という誤用が、大勢を占める現在だが、正しくは、一所懸命。武士が報償などで、地領を主君から授けられる。それは、何も生産しない武士階級が、生きてゆく為の必要条件であった。つまり、その地に居住する農民から、年貢という形で、収穫を取り上げるのである。その他に、封建制の時代、武士階級が生きる術などなかったのである。つまり自分達が日々生き延びる為には、その生活の糧を生みだす土地が、命賭けで武士が守るべきものであった。だから、自分の所領を守る為に懸命であったのである。そこから一所懸命という言葉がでてきたのであるから、そのような緊張しきった時間を一生続けるとしたら、それは気が触れているとするのが、正当な見方である。それとも、現代では気が触れているくらいで無いと生きてゆけない、とのアイロニーか?)
    さて、その後、一遍は、行脚の旅に出、踊り念仏を広めてゆくことになるが、上演中故、ネタバレはこれまで。何れにせよ、一遍の踊り念仏、は生命の炎そのものであり、その純粋性に一点の曇りもない。
      シナリオ的には、一遍がどんどん精神的に成長してゆく部分をもっと作り込んでも良いのではないかと思う。それで、2時間10分位になっても、この内容なら、観客はついてきてくれるだろう。一遍を演じた菅本 生、念仏坊を演じた眞野 基範の演技が気に入った。同時に、一遍がシンドイ時に、彼を支える女(後に女房)の超一坊を演じた庄野 有紀が、可愛らしく、強い女性を演じてグー。

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    2014/10/10 02:12

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