「プリンセス•ダイアナ」暗躍するファクターを描く
「プリンセス•ダイアナ」の笑顔と悲劇に、連合王国のイメージが左右された年だった。1998年のことである。
マリリン•モンロー、エルヴィス•プレスリー、マイケル•ジャクソン…
これら「世界のスター」に共通する語り草は悲劇である。
『劇団東京乾電池』柄本 明氏が指摘するには「大衆はスターの不幸を楽む。不幸になれ、なれ、と血祭りにあげる」らしい。言い換えれば、「世界のスター」を上昇気流にのせるのも大衆だし、雷雨を降らす のも また大衆である、という支配原理である。
もっとも、世の中は そう単純化はできない。複雑怪奇である。結局のところ、「大衆」も新聞社、テレビ局、出版社、広告会社、ロビー団体、財界、政党、宗教指導者等々の「メディア•コントロール」支配下にある奴隷にすぎない。
そうした支配者を仲介しうる人間を「ファクター」と呼ぶ。
この劇は劇場空間にインパクトを残した。クールなそれは、「プリンセス•ダイアナ」の悲劇に暗躍していく「ファクター」にあったと確信する。英国諜報機関説が巷で囁かれるが、「仮説の部分」がなんとも人間的である。
ダイアナと事実上交際関係にあった富豪の「熱」、その身辺警護を勤めた漢たちの「熱」、パリ高級ホテル従業員の「熱」が、史実という名の冷空間に小さく発火するヒューマニズムのようだった。
ただし、「火花」はリアリズムの否定である。ヨーロッパは「契約社会」「ポスト(役職)社会」だ。日本の『半沢直樹』は部下が上司に楯突くドラマであるわけだが、『プリンセス•ダイアナ』周辺は資本家階級だろう。主人に対し胸ぐらを掴む労働者は即効、クビになるはずだ。
感情的に叫んでさえいれば「見せ場」か。
そうではない。
『劇団チョコレートケーキ』が人気を博したのは「威厳」(リアリズム)のためだが、「階級社会」のリアリズムが 欠けてしまっていることが、「プリンセス•ダイアナ」の史実を 完全に舞台化しえない今作の答えだろう。