やねまでとんだ 公演情報 海辺のマンション三階建て「やねまでとんだ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    寄せ集まる自分たち
    一歩外へ出れば、星の数ほどある劇団たちがバトルロイヤルを繰り広げる、弱肉強食の世界。でも、同時にそれは、繭の中から出る必要もない、ぬるさの漂うもの。学生演劇は、この両方のせめぎあう所だ。

    さて、この「やねまでとんだ」はといえば、こわれて消えそうなタイトルからも分かる通り、自分の繭の中から出ない作品。この劇団としては最初の公演のようなので、まだそれでもいいだろう。次の公演予定は来年の夏とある。ゆっくりとしたペース。きっと、それが、最後のチャンスだろう。世の中は、それほど、ゆっくりとは進んでくれない。

    ネタバレBOX

    プログラムにある主催の挨拶。「劇場の扉をおしあけて、客席につく、芝居がはじまるのを今かと待つ。/何がはじまるかは分からない。しかし何かがはじまることは知っている。/扉がひらくたび新しい物語がはじまる。」

    「はじまる」の繰り返しのような、かわりばえのしない文章がつづく。自分の言葉に沈み込んでいるようで、読み手が、あまり、見えていない。

    「はじめに何をやろうかなと考えました。はじめに何をすべきなのか。」

    まるで同じものを並べてしまう、この文章に見られるような、仲間うち以外の評を受けたことのない世界は、でも、他人の目を気にしていない分、面白いところへたどり着くことがある。

    今回の作品は、ひとつの物語として出発するのに、だんだんそれがいくつもの要素に分岐して、最後には、短編集を観ているような、バラバラで繋がっていない印象で終わった。つまり、技術が足りていないのだが、そこが、面白かった。

    プロの劇団は、あえて、物語を、断片的に語ろうとすることがあっても、つい、全体を視野に入れてしまい、大きな枠組みを与えてしまったりする。断片たちは、散らばらずに、ひとつの物語に回収されてしまう。物語をまとめることができる技術が、断片化という、現代を表現するのに適していると思われる手法を、とりづらくしてしまう。

    「やねまでとんだ」は、あらゆる要素が断片化している。役者たちの方向性、物語の抱える要素、音楽、映像、チラシやプログラムのイラスト。全ての要素が、自分だけをみている。いわば、「自分」たちの寄せ集めだ。ひとつの目的を持って出発した物語が、どんどん、不思議に、分裂して、伏線もなにも、「回収されない」物語になる。これは、意図したものとは思えないけれど、自然に、現代社会の構図を、思わせる。バラバラに分解されたままに取り残される、この感覚だけは、面白かった。

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    2008/08/04 09:38

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