毒婦二景「定や、定」「昭和十一年五月十八日の犯罪」 公演情報 鵺的(ぬえてき)「毒婦二景「定や、定」「昭和十一年五月十八日の犯罪」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    引き締まった舞台
     Bプログラムを拝見。事件の本質を内務省のプロパガンダと見定め、現在も散々行われている大衆操作の為のプロパガンダにこの事件が用いられたと解して、定の生き様と取り調べる側の人間の有り様を浮き彫りにし、黒幕をある仕掛けでおちょくっている点でも面白い。作・演出・演技、舞台作りどれをとっても隙のない舞台だ。(追記2014.6.19)

    ネタバレBOX

     ボーボワールは言った。「女は女に生まれない。女になるのだ」と。だが、今の自分にそんなことは、大したことではない。女は来るものだからである。自分は、女性の意志を大切にするので、自分からゆくことは基本的に無い。来るからお相手するのみである。無論、本能はあるから、女性を嫌いな訳ではないが、社会に縛られている以上、自分から則を越えないという狡さを持っているのだろう。基本的に頭脳戦という側面があるから、会って初めてで電流が流れるような衝撃を受けた女性か、何かのきっかけで本当に愛しているのだと気付かない限り、自分から、チョッカイを掛ける必然性は無い。それだけのことだ。このような生き方をしてきただけに、今作で解釈されたような定の生き方には、共鳴する所がある。男の愛は、満遍なく広いが浅い。これに対して、女の愛は狭くて深い。この差を理解できるような気がするのである。偶々、定は、女のこのような愛を理解し、身も心も付き合って楽しんでくれる男に出会い、心底惚れた。それは、永劫の宇宙の有為転変の中の奇跡としか言いようのない出会いである。だから、性器のみならず、生殖器迄切り取ったのだ。雑草を刈っても根が残れば雑草は再び芽吹き、他者の手に掛かる。彼女は唯一無二の相手にそのように好い加減な愛を認めることはできなかった。だから根こそぎ切り取った。自分と彼との旬にであるが永久の愛の為に。ところで、愛の行為とは何か? 究極の形に於いて完全に相手を独占することではないのか? その一点に永遠を込めることではないのか? もとより我ら幽玄の存在が、真の永遠と競うこと等できようが無い。パラドクサルなレトリックを用いて表現するしかないのだ。その表現の形としては、そして、実践の形としては、沈黙する他無いのだ! その意味で、「言葉にできません」と言う彼女の言い方は正鵠を射ている。他に言いようが無い迄に。今作は、だから命ギリギリで求め会ったことが無い連中には、せいぜい想像することができる話なのである。彼女のセイントな部分までは、到底分かるまい。定を演じたハマカワ フミエにはそれが、見えているからこの役にチャレンジしあのだろう。良い“定”ぶりであった。老刑事を演じた谷仲 恵輔の陰影に富んだ表現の素晴らしさ、偽内務官僚を演じた平山 寛人の集中力、憎まれ役の若手刑事を演じた瀧川 英次も、他の役作りが見たい。総じて脚本の素晴らしさ、演出の的確、演技の深さ、舞台装置や、照明、音響の正確な操作、総体がマッチして、完成度の高い舞台になっている。

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    2014/06/18 12:27

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  • ホントに良い舞台でした。

    2014/06/19 03:42

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