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「象徴」とは何なのか。
市役所に貼られたポスターは 365日、健全な男の子、女の子、青年、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが笑顔である。
一つ、具体例を提示するとしたら、ポスターではないが、月刊『太陽』を挙げたい。あの、野球帽を被った笑顔の少年が、「あるべき日本男児」の「象徴」なのだろう。
こうした「伝統的象徴」と現代のメディアがタッグした姿こそ「ももいろクローバーZ」であり、両者に共通するのは健全性、禁欲、均質性、笑顔である。
「象徴」というのは、特定のコミュニティに所属していた、という経歴のみでも派生するのものだ。
ここは飲み会の席ー
「あなたの出身地は どこですか?」が参加者の話題だったとしよう。
もし、「沖縄県出身です」と、小太り男性が語れば、これ以降、彼こそが「沖縄」になる。
シークワーサーに塩を1mg入れるのが彼独自の「好み」であったとしても、それが「沖縄」だという解釈をされる。
国家を代表(=象徴)するのが「元首」だとすれば、この 飲み会は さながら一夜の首脳会議である。
しかし、「象徴」が「個人の脆弱さ」を越えられる概念には私は思えない。
1960年代公民権運動を完全に「象徴」せしめた人物として、南部キリスト教指導者会議 ( SCIC )指導者•キング牧師は存在する。
彼は宗教者なのにもかかわらず、数多くの黒人女性と関係を持ち、タブロイド紙からスキャンダルを狙われた身だ。
人種差別撤廃を掲げる学生非暴力調整委員会 (SNCC)は さらに深刻であった。黒人男性が次々から次に女性メンバーと関係を持つケースが続出し、社会問題化した。
「人種差別撤廃」が道徳なのかは難しいテーマだが、今日の社会からすれば キング牧師の「象徴」は100㌫ではなかったろう。
話を月刊『太陽』の野球帽少年に戻し、この画を「日本男児」と仮定した上、次の質問をしたい。
「普段、漫画を読みますか?」
「ベトナム戦争に ついて どう思いますか?」
「象徴」とは、必ず均質性がなければ機能せず、不健康な「漫画」でも「僕ハヨミマセン」だとしたら、少数の「お坊ちゃん」になってしまう。これだと同年代の「友達」はできない。
また、ポリティカルな考えには一切言及できないのが弱点である。
2009年夏季オリンピック招致総会の際、プレゼンターに登壇したのは優秀な少女だったが、日本(東京)は落選している。ああいった当たり障りのない「東洋的象徴」は時代錯誤だから、IOC委員には抵抗がある。2008年北京五輪開会式を「反面教師」にできなかった当時の招致委員会の責任は重い。
もちろん、実在する野球帽少年であれば、「個人の脆弱さ」を示す「粗」など いくらでも掘り起こすことが可能だろう。
「象徴」は「個人の脆弱さ」に敗北する。「個人」が「強固な象徴」を製造した本舞台とは反対に。
『仮面狂想曲』は エンターテイメントとしては快作である。
つまり、CX『古畑任三郎』のように、「相関図」と「手口」で物語をシンプルに、テンポよく誘導していく。
※ネタバレ箇所
伊藤公一の演技が、脚本を リアリティに変えた。
「狂気」だろう。
「不良」だろう。
おそらく、彼の演技が違えば「10年前の事件」にも 心理的スポットライトが注がれたはずであり、私は それを期待し観劇したわけだが、脚本からすると「正解」だ。
90分間という上演時間を、テンポよく進め、『古畑任三郎』クラスの推理ドラマを観させてくれた。
※続く