脱 老人ホーム?
『見上げたボーイズ』にしては珍しく、多数の高齢者が客演する。
もちろん、演劇に年は関係ないと思うが、セリフといい、立ち回りといい、スピードといい、オリジナルキャストとの「格差」が目立った。
話の骨格はよい。
「老人ホーム」に入居することになった74歳の“演出家”と、介護職員として働く23歳の“彼女”、そして娘を心配し毎日来館する“義理の父親”との三角関係は爆笑必至だろう。
ただし、合間にタップダンス等の演出が挟まれるのだが、これはシチュエーション・コメディに専念した方が、物語の展開に集中しやすい環境だったのではないか。
また、介護職員を「ボランティア精神」に位置付け、入居者への虐待といった負の面を追うアプローチも皆無だった。おそらく身体機能低下、認知機能低下の軽微な高齢者が集う「老人ホーム」なのだろう。
しかし、ハートフル・コメディを目指すばかり、残念ながら論証的な「現場」ではなかった。
タイトル『これから』も、恋愛に限定したことだとすれば、高齢者への「偏見」と「差別」を助長しかねないと思う。
ここで、舞台となった「老人ホーム」を考えてみたい。
沖縄県から北海道まで老人ホームは建っているが、「即ゼロ」にすべきだ。
中京大学の武田邦彦教授は その著書で「子が親の世話をするのは自然界のなかで人間だけだ」と述べている。
身体機能、認知機能が衰えた高齢者を、国が約25兆円の税金を投入し、若い世代が 労働力をもってして その「ケア」をするというのは、少なくとも「自然の摂理」に反する。
もっとも、「子が親の世話をする」が道義的に崇高な「人間らしさ」だとすれば、カネで雇う「介護職員」は反倫理だろう。
讀賣新聞社主筆・渡辺恒雄氏のように、90歳近くであっても頭脳明晰の「現役」はいる。
老人ホームという施設で、日本経済を支えてきた高齢者が第三者との関係において「童謡」を歌ったり、初歩的なゲームを楽しむ姿は「尊厳を奪う光景」である。
若い世代が(道端の)(健常な)高齢者女性に対し、まるで少女のような話し方をしていると、私は「無礼」に感じる。
実は「尊厳ある老い方」こそ、世界一の長寿大国に求められる社会構造ではないか。
「高齢者介護」は、基本的に家庭内で完結されなければならないと考える。これは心理学的にも ある程度の説明は可能だ。
介護職員が「善いことをしている」と自認してしまえば、それは心理学的見地からいうと「モラル・ライセンシング」に移行する。
「モラル・ライセンシング」とは、「善いこと」をした分だけ、「悪いこと」をしたくなる性質をいう。ベストセラー『スタンフォードの自分を変える教室』(ケリー・マクゴニガル)が詳しい。
血縁者、恋愛、金銭見返り、または縁故を除く「依存関係」は必ず破綻する。たとえ雇用されていたとしても感覚が麻痺するはずだ。(ここでは介護職員と被介護者を指す)
「老人ホーム」=「介護福祉」はマクドナルドのように合理化されたシステムだが、思想背景としての「宗教」がなければ、それは破綻する運命にある。
本作『これから』は、そうした「破綻」がハートフル・コメディに隠されていたように思い、問題提起が ほぼ なかったのが残念だった。