満足度★★★★
年輪
この舞台にはご高齢の方が多く出演している。これは実にイイ!!どんなに上手い役者でもあの年輪というか、人生を越えてきた重みや枯れた雰囲気はなかなか出せるものではない。舞台の上にちょこんといるだけで、その存在が大きなエッセンスに成っている。この思い切ったキャスティングは賞賛!!しかし肝心のお話はといえば、無駄が多すぎる。欲張って入らないものを詰め込んだ感があり。出演者も多すぎるのではないだろうか?
満足度★★★★
人生における美徳とは・・・。
こんな世の中、自分のことばかりに時間をかけてしまいがちな我々に
人生の諸先輩がたが人に時間を費やす尊さ、感謝されたときの喜びを身をもって
教えて下さったそんな芝居でした。
高齢者(失礼!)の役者さんたちが経験されたものがじんわりとこちらに伝わってきました。人生のやり直しはいくつになってもできるんですね!
脱 老人ホーム?
『見上げたボーイズ』にしては珍しく、多数の高齢者が客演する。
もちろん、演劇に年は関係ないと思うが、セリフといい、立ち回りといい、スピードといい、オリジナルキャストとの「格差」が目立った。
話の骨格はよい。
「老人ホーム」に入居することになった74歳の“演出家”と、介護職員として働く23歳の“彼女”、そして娘を心配し毎日来館する“義理の父親”との三角関係は爆笑必至だろう。
ただし、合間にタップダンス等の演出が挟まれるのだが、これはシチュエーション・コメディに専念した方が、物語の展開に集中しやすい環境だったのではないか。
また、介護職員を「ボランティア精神」に位置付け、入居者への虐待といった負の面を追うアプローチも皆無だった。おそらく身体機能低下、認知機能低下の軽微な高齢者が集う「老人ホーム」なのだろう。
しかし、ハートフル・コメディを目指すばかり、残念ながら論証的な「現場」ではなかった。
タイトル『これから』も、恋愛に限定したことだとすれば、高齢者への「偏見」と「差別」を助長しかねないと思う。
ここで、舞台となった「老人ホーム」を考えてみたい。
沖縄県から北海道まで老人ホームは建っているが、「即ゼロ」にすべきだ。
中京大学の武田邦彦教授は その著書で「子が親の世話をするのは自然界のなかで人間だけだ」と述べている。
身体機能、認知機能が衰えた高齢者を、国が約25兆円の税金を投入し、若い世代が 労働力をもってして その「ケア」をするというのは、少なくとも「自然の摂理」に反する。
もっとも、「子が親の世話をする」が道義的に崇高な「人間らしさ」だとすれば、カネで雇う「介護職員」は反倫理だろう。
讀賣新聞社主筆・渡辺恒雄氏のように、90歳近くであっても頭脳明晰の「現役」はいる。
老人ホームという施設で、日本経済を支えてきた高齢者が第三者との関係において「童謡」を歌ったり、初歩的なゲームを楽しむ姿は「尊厳を奪う光景」である。
若い世代が(道端の)(健常な)高齢者女性に対し、まるで少女のような話し方をしていると、私は「無礼」に感じる。
実は「尊厳ある老い方」こそ、世界一の長寿大国に求められる社会構造ではないか。
「高齢者介護」は、基本的に家庭内で完結されなければならないと考える。これは心理学的にも ある程度の説明は可能だ。
介護職員が「善いことをしている」と自認してしまえば、それは心理学的見地からいうと「モラル・ライセンシング」に移行する。
「モラル・ライセンシング」とは、「善いこと」をした分だけ、「悪いこと」をしたくなる性質をいう。ベストセラー『スタンフォードの自分を変える教室』(ケリー・マクゴニガル)が詳しい。
血縁者、恋愛、金銭見返り、または縁故を除く「依存関係」は必ず破綻する。たとえ雇用されていたとしても感覚が麻痺するはずだ。(ここでは介護職員と被介護者を指す)
「老人ホーム」=「介護福祉」はマクドナルドのように合理化されたシステムだが、思想背景としての「宗教」がなければ、それは破綻する運命にある。
本作『これから』は、そうした「破綻」がハートフル・コメディに隠されていたように思い、問題提起が ほぼ なかったのが残念だった。