虚像の礎 公演情報 TRASHMASTERS「虚像の礎」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    劇作家は「心の専門家」……
    ……らしい。

    初めて知った。

    力作ではある。
    どこまで、どう本気なのかはわからないのだが。

    ネタバレBOX

    「劇作家は「心の専門家」だ」という台詞が何度も出てくる。
    しかも劇作家と自称する自分自身の口からだ。
    笑いそうになったが、劇場内は誰も笑わない。
    ギャグでも劇作家という存在に対する揶揄でもなかったらしい、ということがラストでわかる。

    「劇作家は「心の専門家」だ」を聞いて、てっきり自らの理想の中でしか生きられない(自称)「劇作家」のストーリーかと思った。

    彼は「本気」で劇作家であるから自分は「心の専門家」だと思い込んでいるようだ。
    それを強く主張して、他人の気持ちにズカズカと踏み込んでくる。

    彼はいつもまるで「批評家」のように、「他人事」の視線で熱く語る。

    妹と、DVな妹の彼が、心の病であると知ったときに、劇作家の彼は、自分は「心の専門家」なのに気がついてやれなかったと悔やむ。

    妹はDVの彼と別れたが、ストーカー行為をされている。
    それに対して劇作家である兄は、「会って話をしろ」と言い出す。
    妹が暴力を振るわれていたのを見ていて、さらにSNSでさの彼が暴力的なツイートをしているのを確認したのにもかかわらずにだ。
    「警察を」の指摘に対しては「警察は彼らの恋愛に対して他人だ」と言う。それは、劇作家のお前もだろう、と心の中で突っ込んだ。

    また、こちらがあちらに仕掛けた「争い」から、あちらから来た難民たちには仕事がなく、生活するためには軍隊に入るしかない、つまり、彼ら難民(移民)たちは、自分たちの仲間と殺し合いをさせられる、と知り合いのあちらから来た男に言われると、「それは心の問題だ」「お金と命とどちらが大切なのか」「彼らは弱いからだ」「自分の心に従えば人は、人を殺すことをしない」「みんながそうすれば争いはなくなる」という主旨のことを言い出す。

    なんだそれ? 
    と思った。

    「争い(戦争でしょ)」で殺し合うのは軍人ではない。確かに実際に殺し合いをしているのは、戦場にいる軍人だが、それをさせているのは上の人間だ。

    同じ地方の人間だから殺し合わないのではなく、いずれの戦争であったとしても(侵略された場合は違うとは思うが、それでも)相手を殺したいと思って戦場に出かける人間はまずいないと思う。
    争い(戦争)は、戦場で戦う人(軍人)の「心の問題」ではない。
    軍人が自分の心に従ったとしても争いがなくなるわけではなく、自分の心に従って相手を殺さなかった軍人は、相手か上から殺されてしまうのだ。

    銃を持って政治家の秘書を撃ちに来た男に対して、劇作家は「今現実に自分が銃を持っていることに支配されている」「心の中は人殺しをしたくないと思っているはずだ」「だから心に従え」みたいなことを言う。
    それは変だ。

    だって、「銃を持って、秘書を射殺しようと思った」という「今」のことにフォーカスしても意味がないからだ。
    つまり、「秘書を射殺しようと思い、銃を構えた今の自分」までにたどりつくまでのプロセスには何度も自分の心との対話があったはず。だから「今の状態」だけを指摘してもしょうがない。
    それで説得されてしまう男もいるのだが。

    簡単に考えると、「心から相手が殺したいほど憎いと思って」いる人が、「現実には銃など構えていない場合」も「自分の心に従え」と言うのだろうか。

    つまり、劇作家の言っていることは、自分の都合のいいような解釈だけで、普遍性がない。その場で思いついたことを、まるで正論のように振りかざし、言ってるようにしか聞こえない。
    それは、自分の目の前で起こっていることが「自分のことではない」からだ。
    「他人事」なので、「批評家」のように相手の気持ちや行動を断ずる。

    精神科の医者らしい男に対しても、上から目線で接するし。

    自分に直接降りかかってきそうなとき(あちら側の男の父親を連合軍に引き入れた結果、悲惨な目にあったというエピソードを聞いたあと)には、薬に手を出しそうになって、現実逃避をしかける。

    他の登場人物たちは、自分のできる範囲で懸命に生きている。
    そこに「心の専門家」であると自称する劇作家は、踏み込んでくる。

    さらにラスト近くで、テロによる爆破が鳴り響く中で、「これは音楽だ」「自分たちが信じることが現実になる」と力説していたが、それは「虚構に逃げろ」ということなのだろうか。

    どこまでも現実が見えない男である。
    この「劇作家」という人は。

    彼は両親のお陰で今の生活が維持できているらしい。
    演劇を続けるためには、やっぱり「助成金」も欲しいらしい。

    ラストには、何か劇作家である彼に対して大きなしっぺ返しがあるのかと思ったらそうではなかった。
    争いをやめるための席に、「重要な人物」として参加を求められる。

    ここまで来ると悪趣味だ。というか、ブラックコメディ。

    どうやら彼は「こちらより前にあちらで評価されている」らしい。
    そして「彼はこちらでも評価されるべきだ」ということまで言われている。
    まさか、それって、この作品の劇作家自身のことではないだろな。

    つまり、「ほかのところではそれなりに評価されている僕」は「なぜ社会ではあんまり評価されていないのだろう」「評価されて当然だ」と思っていて、それを劇中の劇作家に演じさせた、わけではないだろうね。

    この作品では「人から評価」されることがキーワードのひとつだ。
    その評価は人によっては、SCVという数値であったり、愛情であったり、名声であったりする。
    それを劇中の人物たちは強く主張する。恥じらいもなく、言ってのける。

    どうやら、日本に似たこの場所は、劇作家の頭の中にある楽園のようだ。

    そこでは劇作家は、「心の専門家」と言われるらしい。
    そこでは劇作家は、親のスネを齧っても創作活動をすることは尊いらしい。
    そこでは劇作家は、人々の心を浄化してくれる。
    そこては劇作家は、人々に必要とされ、敬われるらしい。

    日本の劇作家が、そういう楽園だけを頭の中に描いているとはあまり思いたくない。

    劇作家の話なのにそれを演じた役者さんの台詞が危うい。
    噛んだり、言い間違えたりしていて、なんとか台詞を言っているレベルだった。
    その設定もあるのだが、そういうわけで彼には思い入れをして見られない。

    議員秘書とその妻の台詞と演技は、まるで翻訳劇を三越劇場(失礼)で観ているような錯覚に陥らせるほど、オーバーで「演技してます」感たっぷりで少し冷めた。特に最初のほうで秘書とその妻がキッチンでする会話と演技には苦笑した(秘書が妻を後ろから抱きしめるとか・笑)。
    その議員秘書は、ノーネクタイ、丈の合わないスーツ、ボサボサ頭と、およそ議員秘書とは思えない格好だった。

    ほかの登場人物たちが、きちんとした衣装で、イメージ通りすぎるほどの、型にはまったパターンの衣装と演技なのに(特に宗教指導者に至っては、魔法の国からやって来たような衣装)、彼だけは違うということに違和感を感じた。

    その中にあって、ヘーラを演じた林田麻里さんだけは、光るものがあった。特に彼との関係が露わになるシーンにおいて。

    多くの言葉を重ねながら、「演劇」の限界、劇作家という人種の傲慢さを描いた作品、あるいは「観客への挑発」ならば、お見事だと言いたい。
    私は見事に挑発された。

    劇作家が何度も言う「物語」というキーワードは、井上ひさしさんの『太鼓たたいて笛ふいて』で使われていたほうが鮮烈だった。それを劇中の劇作家の発見のように何度言われても。

    劇中では「繁栄とヒューマニズム」は「相反するもの」として述べられている。確かにブラックと呼ばれる企業もあるが、それは相反することはない、ということは今はもうすでにわかってきている。それなのに、それを声高に言われてもなあ、という気がする。「蟹工船」じゃないんだから。

    と、いろいろ書いてきたが、2時間を超える作品でありながら、最後まで見せきったのには拍手をしたい。力作ではある。

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    2014/03/12 14:34

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