最後に残るのは「人」だ
自治体が「国際平和都市」「人権擁護」を掲げると違和感を持つのは私だけだろうか。
法制度からいっても、行政組織というのは「権力の一部」であり、抑止される側にたったメッセージを発表すること自体、その責任を自覚しない怠慢である。
仮に道州制が進展すれば、軍事・外交以外の権限は自治体に移譲され、各地域ブロックに「地方政府」が発足する。
「地方にカネを!」しか訴えない知事、市長、区長、町長、村長たちは、それ相応の「権力と責任」が生じる列島未来図を肝に命じるべきだ。
私が『虚像の礎』に共鳴したポイントは、「首長」や「住民」といった、現行の自治体用語に基づく政治ヒューマンドラマである。
これは、近い将来、「国民から住民」に帰属意識が細分化することを念頭に置いた上の解釈だと思う。「自治体権力」を呼び覚ますサイレンかもしれない。
中津留章仁氏によると、
「これまでは
いかに観客が長時間集中出来るか
その演劇用語を獲得してきたが、
恐らくこの作家は
今回は真逆の
観客が醒める、という行為を
好意的に受け取ることは出来ないか、
それを検証しようとしているような気がする。」
という。
確かに、序盤こそ「退屈な会話劇」だったが、終演後このような感想を抱いた観客は少数派だろう。「集中」どころか、受験勉強以来の限界点を突破させるラスト・シーンである。
『虚像の礎』のキーマンとして劇作家のアテナー(星野 卓誠)がおり、彼の
「君はストーリーを作りたいだけだ」
「想像してご覧よ」
なる台詞に「争い」を和解させる「ポリティカル・パワー」を見出す。
ただ、この劇作家が作・演出の中津留氏であることは疑いの余地がなかった。
もっとも、旧チェコスロバキア大統領を務めた劇作家・ハヴェル氏のように、知識人と呼ばれる人物が「ポリティカル・パワー」を発揮してきた人類史は ある。
それを承知した上で批判するが、何というか、中津留氏の「自惚れ」と紙一重に映ってしまった。
実は『虚像の礎』は都民芸術フェスティバル(主催_東京都・公益財団法人東京都歴史文化財団)の対象公演である。
杉並区からの後援も受け、通常の劇団公演とは違い、圧倒する「マン・パワー」だった。終演後には自治体関係者なのか、企業関係者なのか、東京都歴史文化財団職員なのか、約8人体制で一人ひとりに「紀州梅サンプル」が配布されていた。
この「公演助成」を中津留氏は逆手に取り、「『劇』の社会的価値」を劇中に問うた。
※ネタバレ箇所
劇作家が有する社会的貢献力を、本人アテナーへ聴く重鎮議員テミス(カゴシマ・ジロー)との議論を借り、劇団『トラッシュマスターズ』の公演そのものから暴いてしまったのである。
これには会場から爆笑が起こった。
彼らは 「繁栄とヒューマニズム」を どう一致させるか、そのテーマに挑む日々だ。
結局、『虚像の礎』でも完全なる回答は提示できず、再び「劇場空間から社会をえぐる」旅を継続する。