かもめ~21世紀になり全面化しつつある中二病は何によって癒されるのか、あるいはついに癒しえないのか、に関する一考察~ 公演情報 アロッタファジャイナ「かもめ~21世紀になり全面化しつつある中二病は何によって癒されるのか、あるいはついに癒しえないのか、に関する一考察~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    僕は自分が思っているほど、地球の中心にはいなかった
    「中二病」という言葉は、伊集院光が作ったものとして有名だが、「中二」(中学二年生)を揶揄的に最初に使ったのは、チェーホフであるというのも、やはり有名なことだ。

    それを冠したサブタイトルから『かもめ』の登場人物で思い当たるのは、やはりトレープレフ(コスチャ)。
    どんな『かもめ』見ても、トレープレフは空回りして痛々しい。

    しかし、彼が「主役」ではなかった。

    Bチームを観た。

    ネタバレBOX

    アロッタ版の塩顕治さん演じるトレープレフは、生真面目で痛々しい。
    この造形は、まあ、普通だな、と思った。
    この彼が物語の中心になるのかと思ったらそうではない。

    前半での感極まったような彼の台詞回しには、魂が入っていたが、中盤あまり見せ場もないことから、それが観客の脳裏から消されてしまう。

    彼をかき消すのは他の登場人物による。
    つまり、中盤からグイグイくる登場人物がいるのだ。

    それは、トリゴーリンだ。

    アロッタ版のトリゴーリンを観て、「トリゴーリン! これだ」と思わず膝を打った。
    中田顕史郎さん演じるトリゴーリンがとてもスケベなオヤジなのだ。
    今まで観た『かもめ』では、トリゴーリンが(舞台の上で)見せる姿は、ある程度の体面を保っていたという印象が強い。
    アルカージナと釣り合わせるため、あるいはトレープレフとの対比のため。

    しかし、アロッタ版のトリゴーリン(中田顕史郎さん)には、それがない。
    剥き出しなのだ。

    トリゴーリンがニーナに作品を生み出すことについて、自らを吐露するような場面があるのだが、これって、もともとそうだとは思っていたが、それでも若い娘だからつい本音を語ってしまった、というような体裁があったと思う。
    しかし、このトリゴーリンは、芸術家を前面に出し、創作の苦悩を餌に、何も知らな少女を口説いているようにしか見えないのだ。
    そう、これが彼の本質だったのだ、と改めて見せられた。

    ニーナとアルカージナの2人に対する口調も動きも、とてもイヤラしいのだ。
    ムスク系の香りがプンプンというか(笑)。

    つまり、トレープレフの立場からすれば、トリゴーリンが売れっ子の作家だからということだけではなく、「男」としての魅力に嫉妬していたというセンで読み解いていけるようになるのだ。

    母を「女」にしてしまい、さらに自分のそばにいたはずの少女も、あっさりと男性の魅力でかっさらってしまったトリゴーリン。

    確かにオリジナルの『かもめ』にも、そういう見方はできるのだが、女優、劇中劇という小道具で、それが薄れてしまっていたように思う。

    松枝佳紀さんは、それを露わにした、と言っていいだろう。
    もともと『かもめ』は「恋愛」がストーリーの中で大きな軸のひとつになっているのだが、さらにクローズアップしていた。

    トリゴーリンが体面を気にしないように、アロッタ版のアルカージナは、恋する少女のように我を忘れてトリゴーリンに向き合う。激しいアルカージナ。
    つまり、アルカージナは「母」の前に「女優」であったが、「女優」の前に「女」であったのだ。さらに言えば、「母の前に女優であった」ことを選んだのも「女」であったからということが見えてくる。

    トリゴーリンのスケベさ(笑)から、『かもめ』の世界がもうひとつ開いたような気さえする(言い過ぎか)。

    アルカージナを演じる辻しのぶさんが、「女優」で「女」で「母」である姿がいい。
    トレープレフの劇を見るときの、なんともイヤな笑う感じがとてもいいのだ。
    トレープレフが押しつぶされてしまうのがよくわかる。

    秋山昌赫さんが演じるメドヴェージェンコはバリバリの関西弁で「たった23ルーブリでっせ」みたいなことを言う。
    これには笑った。

    まるでメドヴェージェンコに命が吹き込まれたようだ。
    彼に命を吹き込むことで、彼とマーシャの関係、さらにトレープレフへの複雑な想いの変化が見えやすくなってくる。

    トレープレフへの慰めの言葉が本気で言っているように、暖かく聞こえ、後半でマーシャに対する当てつけから、トレープレフかける言葉が、しなやかな鞭のように聞こえるのだ。関西弁だから。これはうまい設定だ。

    さらに、整理されたマーシャ(香元雅妃さん)の台詞からは、トレープレフへの想いがこぼれてくるし、メドヴェージェンコとの関係も見えてくる。「恋愛」を軸として。

    この舞台で特筆すべきは、6人で『かもめ』を演じたことだ。
    今回の軸になった「恋愛模様」にかかわる6人だけの登場としたことで、松枝さんの意図が明快になったと言っていいだろう。
    それによって、各登場人物について、たっぷりと、その造形を作り上げることができたのだ。
    メインの登場人物たちに比べれば、さほど光が当たらないメドヴェージェンコがこんなにくっきりしているのだから。
    原作どおりフルに登場人物が出るのであれば、そうはいかない。
    観客の視点が定まらなくなるからだ。

    それは、この舞台の最初から強く感じたことでもある。

    つまり、登場人物が初めて舞台の上に出るたびに、すぐに「この人は何者なのか」が明確に見えたのだ。
    それは、「その人が何という役名でどういう人物なのか」ということがわかるのではなく、かと言って、「見た目でキャラがわかる」わけでもない。

    もっと根源的なところ、うまくは言えないが、「この人は、舞台のどういう構成要素」であるのかがわかるような感覚がしたのだ。
    この作品は6人の登場人物のバランスで成り立っているので、どの登場人物も「いきなり立ち上がる」ことができたのではないかと思う(だからトレープレフ1人がメインにはならないのだ)。
    そのため、とても作品に入りやすくなった。

    ニーナを演じた縄田智子さんはとても初々しくて、まさに「十代の少女」であった。
    彼女だけが「白い」衣装(スカート)を身にまとっている。
    4年後の彼女の白いスカートは、丈の長さこそ変わったものの、白いままだった。
    これは彼女の本来持つ精神を表していたのではないかと思うのだが、やはり、ダーク系の色のほうが意図としてすっきりしたと思う。解釈と思い入れの違いなのだろうが。
    また、4年後に登場するシーンでは、もっとやつれていてもいいのではないかと思うのだ。それなのにトリゴーリンの話をする彼女の瞳は……のほうがトレープレフへのダメージは多きかったと思うからだ。

    で、中二病に話を少し戻すと、トレープレフはそれなりに有名な作家となる。
    そこが、「中二病」と言われても「なんだかなー」のところはある。
    もちろん、「中二」の部分と「成功」の部分はトレードオフの関係ではないのだが、それでもトレープレフ自体が、トレープレフから見たトリゴーリンと同じに見えてしまうのは、見る側に「中二病」の症状が出ているからだろうか(笑)。
    まあ、原作が「中二病」を前面に出しているからではないけれども。

    そのサブタイトルからてっきりトレープレフにもっとスポットが当たった作品ではないかと想像していたのだが、そうではなかった。
    それをトレープレフの立場から言えば、「僕は世界の中心ではないんだな」ということで、彼の中二病をこじらせてしまいそうだ。

    「中二病」というのは、自己愛による妄想がこじれた状態だが、そう考えると「恋愛」はまさにそれではないかと思う。
    「あとから思い出すと赤面してしまう」ことを言い、やってしまう精神状態であるところも似ている。

    つまり、アロッタ版の『かもめ』は、「中二病と言われてもしょうがない恋愛模様を描いていた」と言っていいのではないだろうか。

    アロッタ版の『かもめ』のラストには、プラスされたシーンがある。
    自殺したはずのトレープレフがニーナとまるで恋人のように抱き合うシーンだ。
    6人の登場人物、つまり3組のカップルが収まるところに収まったという図であろうか。
    トレープレフとニーナのカップルは、トレープレフの妄想にすぎないのであろう。
    松枝さんは、トレープレフへ甘いラストを用意したのであろうか。

    この2人が抱き合うラストシーンで流れる甘い曲は、たぶん、ニーナとトリゴーリンが抱き合うシーンにも流れていた曲ではないだろうか。
    そうすると非常に残酷な選曲であり、残酷なシーンであったと思う。
    ニーナが抱き合っているのはトレープレフではなく、トリゴーリンだからだ。

    トレープレフの中二病は死んでも癒されなかったというところか。
    すべての登場人物が、わだかまりを残したままなので、誰も癒されていないのだが。

    余談だが、医者が登場しないので、ラストはどうするのかと思っていたが、マーシャがその台詞を引き取っていた。
    アルカージナにはすぐに察せられることだとしても、「子どもがイタズラをして」の台詞はないと思う。この屋敷に子どもはいないだろう。「子ども」がトレープレフのことを指していたとしても、あの場面の言い訳にとしてはうまくないと思う。

    ついでに書くと、衣装のデニムは田舎(舞台の設定する場所)への引力を表していたのではないか。

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    2014/02/27 07:40

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