“ゆうき 梨菜ちゃん かわいかった”です…
とことん『歴史の掟』に男女を沈めておきながら、それでも、「官能」に手をすがりつかさせる逆説…。
「官能」がもとで失脚したのに。
『ロミオとジュリエット』は、言わずと知れたシェイクスピア古典劇である。
先日、そのワードを聴いたような…。
2月、内幸町ホールで『柳家さん生独演会 落語版・笑の大学』という寄席が開催された。三谷幸喜 脚本『笑の大学』を落語化する試みであり、日本大学芸術学部先輩にあたる柳家さん生 師匠のアポイントが快諾され実現した公演という。
この『笑の大学』にも、『ロミオとジュリエット』というワードが重要な位置を占めた。
簡単に説明すれば、これは1940年代、浅草劇団の専属作家と検閲官が繰り広げる「表現の自由」のバトルだ。
作品紹介【昭和初期。あらゆる娯楽は規制され、演劇も検閲を受けなければ上演できないご時世に、厳格な検閲官サキサカと、喜劇作家ツバキが取調室で出会う・・・。】
その専属作家が検閲官に提出した台本こそ『ロミオとジュリエッタ』であった。ところが、検閲官が「日本人にしろ!」と書き直しを指示したことで……。
つまり、シェイクスピアを浅草寺に招いたのは、『ドガドガプラス』が最初ではなかったのだ。
さて、舞台を解説したく思う。
「どうしても声を出したい人は役者を呼んで!」
「手を叩いても結構です!」
このことを、『ドカドカプラス』劇団員が伝えていた。
「お祭り」である。
「掛け声」は歌舞伎座でも盛況だろう。
なぜ、役者が熱演中なのにもかかわらず、劇場に「掛け声」が響き渡っても問題ないか。
それは、歌舞伎という演目自体が、「死後の世界」=「非日常空間」=「お祭り」だからである。
『ドカドカプラス』と盟友関係にある『唐組』が花園神社で毎年公演を行うが、神社であるがゆえに「お祭りの一体感」という観劇環境が追加される。
本舞台『ロミオとジュリエッタ』が「お祭りの一体感」を生む環境は、レビューだったと思っている。
「堕落する官能」を、掃除機のように吸い取る「きらめき」である。
衣装が違う。動きが違う。熱気が違う。
「元踊り子だからできる、浅草演劇力」の本領だ。
※続く