「ゆとり世代」へ対する偏見とコンプレックス
こう記すと、誤解してしまう方もいるが、「演劇のパッケージ」を提供されたように感じた。
戦国時代の織田信長や明智光秀といった武将が憑依という形で現代にタイムスリップする話である。現代人の口からは、「浜田幸一」や「三宅久之」といった故人、果ては「田原総一郎」さえ出てくる。
この舞台は何度も上演され続けた脚本を元に造られているが、特に演出家の意図として、「現代の日本政治」への捨てきれない意欲が見え隠れし、観客も それを期待した。しかし、なぜか政治評論家や政治討論番組のワードが飛び交うだけであり、そこに意味が存在したのか疑問である。
戦国時代の争いから、現代政治の混迷を描くアプローチも有りだっ
たはずだが、それでも今回の まとまった演劇を観ると不必要だったかもしれない。殺陣シーンも、不安なく見届けることができた。
晴天の日の観覧車である。
那珂村たかこが「泣く子も黙る」織田信長を雄々しく演じた姿は本当の憑依だった。日本・インドネシア共同合作映画『キラーズ』(2014年)主演を務めた北村一輝氏は、「野村(主人公の元外資系ビジネスマン)になりきっていた」と述べたが、演じるとは何であるか 洞察させる威厳だった。
沖田桃果の萌え機関車、大門与作のお笑い休憩空間、今若孝浩の肉体スライムは 『リバース・ヒストリカ』の歴史を塗り替える。
私たちは、「昔の人」を特殊なレンズを通してしか観察していない。もし、「自分の祖先」を思い浮かべれば、その人物像も変化する。
横田庄一さんはブラウン管を観て名言を残しただろうか。「あれ、中に人がいるぞ!」と。
織田信長も、きっと、一日経過すればスマートフォンを使いこなし、減税の訴えをYouTubeに投稿。
そして二日後には、政治を諦め、名古屋市内のアイススケート場を滑っていることだろう。