殺戮十七音 公演情報 パラドックス定数「殺戮十七音」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ほとばしり/脳髄叩く/十七音
    1年間の休息期間を終え、お待ちかねのパラドックス定数。
    男祭りなところも変わらないし、台詞を大切にしているところも変わらない。

    濃密で、刺激的。
    青臭くもある俳句演劇。
    十七音(言葉)で舞台がうねり、十七音に脳髄を叩かれる。

    ……下手な十七音を自作して感想を書いてみた。

    ネタバレBOX

    <停止して/生みの苦しみ/十七音>

    1年間の休息期間を終えて、パラドックス定数が帰ってきた。
    休息期間を告げるプログ(先に一部を引用した)を読み、創作を続けることの厳しさをヒシヒシと感じていたので、戻って来ることがとてもうれしい。

    会場に入ると客席に対峙する4名の役者。
    観客との距離3、4メートル。
    互いに緊張感が走る。

    <アングラの/青臭くもあり/熱芝居>

    言葉を嘔吐するというシーンから大きなうねりが起こり、ヒートアップしていく。
    うまい役者が吐く台詞のツバ競り合いが繰り広げられる。

    そこで語られるのは、十七音を絞り出すように、苦悩する人々。
    1年間の休息期間前の衝撃的なブログの内容と重なってくる。

    勝手に、以下にそのブログの一部を引用する。特に読んでいて辛かった部分のみを。
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    (略)
    「野木萌葱はパラドックス定数を一年間、拒絶します」
    (略)

    もう、限界です。
    もう、書けません。
    疲れました。
    何も感じない。
    心が動かない。
    必死に笑う。
    吐くために食べる。
    (略)
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    どれほど、身と心を削って創作してきたのかが、うかがえる。
    あの素晴らしい数々の作品には、こんなにまで追い詰められてしまうものがあったのか、と愕然とした。

    だから、心から復活を待っていた。
    この上演は日程的には決まっていたのだが、それでも心から「復活」を願っていたのだ。

    そして、この舞台だ。
    創作との隣り合わせにある苦悩は、野木さんとしては避けては通れないものだろう。
    ここで、それを清算しなくてはならなかったのではないだろうか。

    役者が吐く(文字どおり「吐く」という行為もある)、台詞の中の1語1語に込められた想いは、とても熱く。そしてどこか青臭い。
    アングラのようだ。
    寺山のようだ。
    寺山修司は俳句もやっていた。演劇もやっていた。
    なんかそんな連想をしてしまう。

    <時空の/レイヤー重ね/飛び続く>

    時空のレイヤーが重なり合い、虚実のレイヤーもそこに重なる。
    創作という、一本の細くて頼りない線が、それらを貫く。
    細くて頼りない線なのだが、強靱さがある。
    それを信じなくては創作はできない。

    登場人物たちは、薬に頼ったりしながらも、とにかく言葉を吐いて、吐いてつないでいく。
    言葉で舞台がうねり、言葉に脳髄が叩かれる。

    <吐く言葉/熱さがゆえの/自家中毒>

    自分たちの言葉に酔いしれる。
    4人の男たちが、熱く言葉をぶつけ合う。
    彼らが交わす言葉の刃は、互いに互いを、そして自分を切り刻み、恍惚へと導く。
    その様は、優雅でもあり、さながら十七文字のダンスだ。

    すでに「十七音」という文字数以外の要素は「俳句」からはみ出ている。

    <他者あり/故に我あり/十七音>

    生み出す苦しみは自分の中だけにあり、それを解放できるのは自分だけなのではなく、「他者との関係」が大切である。

    舞台の上では苦しみもがきながらも、他者とは積極的にかかわっていこうとする姿がある。
    「他者」、いや「仲間」と言ってしまってもいいのだろうか。
    「創作」は、他者との関係があって実現するのものではないか。
    「見る相手」が存在しなければ、何も生まれていないのと同じではないのか。

    この舞台では、作品を持ち寄る俳句会のような会合があった。それに向けて創作していた。
    もちろん、それが目的ではないし、創作という行為自体は、誰かとの関係ではなく、自らの意欲と意思によってわき上がるものである。
    しかし、それを「見てくれる相手」がいなければ、ということではないだろうか。
    劇中でも互いの様子が気になるし、相手にぶつけたいと思っている。

    見ていると、野木さんの気持ちが、作品の中にトレースされているように思えてならない。
    「他者」がいることでの創作、「仲間」がいることでの創作。

    そして、苦しさの先に何があるのか。

    上演前の前説は、野木さん自身がいつも行っている。
    私は、この前説が好きだ。
    とても観客のことを考えてくれているのだな、と感じるからだ。

    例えば「上演中に気分が悪くなったり、お手洗いに行きたくなった方は、こちらからお出になってください」「私は、ここにいます」。
    こんな風に観客のことを気遣ってくれる方はいるだろうか。
    たいていは、携帯切れだの、飲食するなだの、そういう注意事項だけで、いざというときのことを何も言ってはくれない。
    そもそも、通路を全部潰してしまい、不測の事態が起きたときに、外に出ることすらできない劇団が多いのだ。
    野木さんは、外への出方だけでなく、「私はここにいます」と自分の居場所を示し、観客を安心させてくれるのだ。
    男前(笑)だと思う。

    そして、今回は前説では、いつもの地震の際の対応方法(地震の際の注意事項は、2011年頃はどこの劇団もやっていたが、最近は忘れてしまったようで触れない公演も多いが)を、
    「……の場合にはいったん芝居を中断します……外の様子と劇場内の状況を判断して、外のほうが安全だと判断できる場合には、係りの者がお客さまを誘導いたします」
    と、丁寧に説明したあとに、さらにこう付け加えた。

    「お客さまを誘導したあとで、たぶん我々は上演を続行します」
    と。

    これには笑いながら泣きそうになった。
    帰って来たパラドックス定数からの宣言であるからだ。

    そして、この作品の行き着く先は、この前説につながっていたのだと感じたのだ。

    パラドックス定数は、また絶対に観たい。

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    2014/01/07 08:08

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