「なんでわたしばっかり」 公演情報 プリンレディ「「なんでわたしばっかり」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    色々示唆に富む舞台
     彼が自室に寄った時、甲斐甲斐しく食事の用意をしたり飲み物の準備をしたりするシーンが出てくるが「来る時、お腹がすいてるなら来る前に連絡してって言ってるでしょ」から「お風呂入る」など何気なく見える科白など、女性が伴侶或いはその候補に見せる日常的な世話と愛情の形を見せて巧みである。
     一方、男には一言も科白が与えられていないシナリオと演出が頗る興味深い。また、妹と彼の浮気に気付いた姉が、彼を追い出すシーンで出て行く男が去り際、チラっと振り返って部屋を覘き込むシーンなども普段の観察力が見て取れる演出である。(追記2013.12.31)

    ネタバレBOX

     自由奔放な妹のキャラクターを表現するに際して、他者から見られた妹のイマージュに従って可能な限り別の女優が演じているのも良い。この辺り、あおきりみかんの鹿目 由紀の発想に近いか。或いは、鹿目 由紀の影響を受けているのかも知れない。異なっているのは、鹿目 由紀の分身或いは分裂は、個々人の意識の多様性を表しているのに対して、今作では、見られたキャラを表していることである。また、観客に妹が同一人物であることを示す為に、妹を演じる時には、必ずレイを首に巻いて出てくるのも初心者向けのサービスではある。
     更に自由奔放な女と家庭的な女の差を、単に現在我らの暮らす社会のタイプの違いとして見るのではなく新約聖書のベタニアのマリアと姉のマルタの話を引き合いに出し、実際の生活実務活動と観想(遊び、哲学など精神的活動)を提起することで、社会的生活を営む、蟻や蜂迄含めた労働と遊び、即ち生産と非生産、或いは生きる為の労働と精神的働きという普遍的差異を呈示してもいる。
     更に面白いのは劇中「なんでわたしばっかり」という科白を妹(遊び)、姉(労働)の両者が共に発している点である。おまけにこの科白は、どちらにも当てはまるのである。但し、妹のどうして云々は、周囲の同性からの非難がどうして自分にばかり向かうのか? の意であり、姉の場合は、どうして自分ばかりが地味で苦しみの多い労働に携わらなければならないか、という内容の差があることに注意しておきたい。
     ここで男には科白がないことの意味を考えてみよう。それは、現在、この地で女性が置かれている状況を形作っている社会システムであり、それが彼女らを縛っていると女性達が感じているからかも知れないのではないか。つまり、多くの女性が、この状態を肯んじたいとは思っていないのだ。では、彼女達が望むようなパラダイムシフトは可能だろうか? それが可能だとして、それはどのように為され得るか? 為される場合、両性協力してか? その場合、どちらが、どのようにしてヘゲモニーを握るのか? 両性が協力できないとすれば原因は何か? 協力できず単性で為す場合、♂が有利か♀が有利か? セクシャルマイノリティーが存在するが、問題化するのかしないのか? そもそも問題化できるのか? 単性生殖やクローン技術をも射程に入れた疑問はいくらでも湧いてくる。頗る興味深い舞台である。

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    2013/12/29 12:43

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