治天ノ君 公演情報 劇団チョコレートケーキ「治天ノ君」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    現代の時代状況への強烈な問いかけ!多くの人に観て欲しい作品。
    現在の社会状況に、この作品の問いかける意味は大きい。

    現首相は「美しい国」「日本を取り戻す」と声高に叫んでいるが、
    そこでイメージされているのは、「強い日本」のイメージ。
    まさに戦前「明治の日本」であり、「昭和の日本」の姿だ。
    その間に挟まれた大正時代。
    それは、大正デモクラシーや大正ロマンに代表されるように、
    ほんの一時自由が花咲きかけた時代だった。

    その時代の天皇の話。

    作品から、大正天皇が、大正時代が、歴史から消され、忘れられた理由が見えてくる。
    「取り戻す」べきは、明治や昭和の「強い日本」ではなく、弱くても自由な大正の気風なのではないか。

    作品のラストでは、目の前の芝居が、今現在の社会状況とぴたりと重なって見えた。
    私は作り事の芝居を観ているのではなかった。社会の中で自分が置かれている状況そのものを自覚させられていたのだ。こんな感覚を覚えた舞台は初めてだ。

    ブレヒトのような演出(異化効果など)がなされていた訳ではないが、ブレヒトが叙事的演劇として観客に感じさせたかったものは、私がこの作品のラストで感じたものなのだろう。
    理屈では分かっていたが、初めてそれを体感した。

    *箇条書きのように書きなぐっているので、後日整える予定。

    ネタバレBOX

    私は大正天皇についての知識がないので、
    大正天皇がこの物語のような人物だったのかどうかは検証できない。
    ただ、観客の姿勢としては、大正天皇が本当に善人だったのか、大正という時代が本当に自由なだけだったのかなど、この作品で描かれているものを史実としては信じ込まないという留意は必要だろう。
    視点を変えて歴史を見れば、明治から昭和へと続く発展過程の一段階として大正を捉えることも当然できるのだから。
    それでも、そもそもこれは創作物語でり、事実がどうであったかよりも、
    この作品で劇団チョコレートケーキが問いかけようとしている内容にこそ意味がある。
    これは、過去を扱いつつも、現在を問うている作品なのだ。

    この物語の中で、天皇は、体が弱いが、自由を愛し、権威を振りかざすことのない、心優しい人物として描かれる。
    それは、強さと威厳を誇る父:明治天皇や、父と同じ資質を持つ息子:昭和天皇とは全く異なる資質のものだった。物語の中では、その天皇の資質が、施政にも影響し、大正時代の自由な気風を作り出したとなっている。

    だが、それは天皇の威厳を損なうものにもなりかねない。天皇は臣民には手の届かない神であり、人間であってはいけないのだ。

    それでも、原敬などは、その大正天皇の人間性に大いに敬意を持つ。
    牧野伸顕も初めはその人間性に惹かれたものの、第一次大戦で多くの国が欧米列強に力で征服させられていった様を見て、日本も強くならねばならない。「自由より力を」という気持ちになっていく。ちょうどその時期に、大正天皇に脳の病気が発症する。そして症状はどんどん悪化し、もはや天皇の威厳は保たれないと牧野は判断し、皇太子裕仁を摂政(実質上の統治者)にしようと考える。だが、大正天皇は承知しない。牧野は皇太子と組んで、大正天皇の脳の病気のことを新聞に発表する。それも、幼少期より脳の病気を患っていたということにし、歴史までおも書き替えてしまう。それは国民の記憶を書き替えることでもある。最終的には、皇太子が「父である大正天皇は摂政になるということを許可した」と言い張り、母皇后から「本当にそれでいいのですね」と釘をさされるも、「それでいいもなにも、陛下が許可したことだ」と言い、摂政に就任する(1921年11月25日)。

    その数年後(1926年12月25日)、大正天皇が崩御する。崩御から半年も経たない内に、本来ならば喪に服しているべきなのにも拘わらず、明治60年祭(←正式名称不明)を行う。意図的に大正天皇、大正時代の記憶を消し、明治の「強さ」を昭和で復活させようとしている。(顕著な例は、1927年11月3日に、明治天皇誕生日が明治節として祭日に復帰。その一方で、大正天皇誕生日は平日に。)明治60年祭の直前、昭和天皇裕仁の前に現れた母(元皇后)は「大正天皇を二度殺すことになるのですよ」というようなことを言う。それは、一度生命が死した者を歴史からも抹消するという意味なのか、嘘を付いて摂政になったことを一度目の殺しとし、歴史から葬ることを二度目の殺しと考えているのか、、、いずれにせよ、「歴史からも父を葬り、父や母とは全く違う道を歩むので良いのですね?」という問いかけである。

    これは、物語内で昭和天皇が問われていることであるとともに、現代日本社会が(つまり、観客が)、「優しさや自由を捨てて、強い国を本当に目指すのですね」と問われているようにも感じられる。

    ラストシーンは、昭和天皇が、大正時代を葬り、昭和時代を踏み出すシーンで終わる。
    このシーンが、私には今現在の社会と重なって見えた。単に重なったというだけではない。
    舞台を観ながら、昭和天皇の姿を観ながら、自分の置かれている社会状況について考えていた。
    「本当に、自由を捨てて、強い国になろうとするのか、この国は?」と。
    その入口に、もう私は、私たちは立たされてしまっているのだと。
    戦慄を覚えた。
    舞台作品を観て、こんな感覚に襲われたのは初めてだ。素晴らしかった。

    この時代にこそ必要な表現だ。

    他にも印象的だったシーンを書く。

    劇中、大隈重信は大正天皇との会話で、「なぜ明治維新が天皇を担ぎ出したかと言えば、欧米から日本を守るため、幕府に代わって日本を統率するには、臣民の誰もが崇める神棚が必要だったからだ。その手段として天皇を利用した。だが、時代が経て天皇を崇めるのが当然という世代の政治家が現れると、天皇を崇めることが目的となり、手段と目的が反転してしまう。つまり、国を統治するために、神棚としての天皇が必要だったのに、天皇制を崇め守ることが目的となり、そのために国民が犠牲になる。」という趣旨のことを言う。まさしくそのように歴史は進んだ。

    役者さんたちも本当に素晴らしかった。全員素晴らしいのだが、
    特に松本紀保さん(貞明皇后節子役)は、淡々とした演技で、最初はそれほど印象的ではなかったのだが、芝居の最後には、その存在感に圧倒されていた。彼女の静かな振る舞いと、穏やかでありながら、強い信念を持った問いかけが、芝居全体を支配していた。大正天皇を支えた妻であると同時に、芝居を底辺で支えていた演技であり、彼女の言葉こそが、最終的には観客への問いかけにもなっていた。驚くべきことだ。
    また、いつも思うが、チョコレートケーキの劇団員、西尾友樹さん、浅井伸治さん、岡本篤さんは特に良い。
    西尾さんはヒトラーを演じた時も思ったが、繊細な人物を演じる時の揺らぎのようなものが絶妙だ。

    基本的には絶賛なのだが、一つだけもったいないと思ったのは、皇后節子と昭和天皇が話をする時の二人が、親子に見えなかったということ。<『治天ノ君』関連年表>には「節子、昭和天皇裕仁を出産」とあるので、実の親子のようだ。だが、そう見えなかった。史実としても、二人には確執があったようだが、いくらいがみ合っていても、母と子の関係は、愛情であれ、憎悪であれ、もう少し情が見え隠れするような気がする。それが感じられなかったのはもったいなかった。

    そうは言っても、作品全体としては、本当に素晴らしかったです。
    ありがとうございました。

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    2013/12/20 01:06

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