三人姉妹 公演情報 第七劇場「三人姉妹」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    美しい、とにかく美しい
    日本人とフランス人の役者により、日本語とフランス語が飛び交う作品。
    どの一瞬も「絵」になる。
    「美」が舞台にあり、それが絶えず変化していく、万華鏡のような空間。
    新国立劇場で1日だけの公演。

    ネタバレBOX

    鳴海康平さんが1年間のフランス滞在した成果のひとつであり、滞在中にフランスの俳優とともに作り上げた新作だということだ。

    轟音とともに舞台は開く。

    聞こえるか聞こえないかぐらいの、微妙なノイズが舞台を覆う。
    それが舞台の上の緊張感と違和感を高めていく。

    誰とも知れぬ人物がビデオカメラと三脚を手に入ってくる。
    そして、上手の机にも人が座り、書き物をする。
    彼らは、舞台の中で行われることを、「劇の外」の視点から観察しているようにも見える。

    演劇はレイヤーで成り立っている。
    舞台の上と観客席の2つのレイヤーが存在する。
    舞台の上の時間や場所は、観客席のそれとは重なり合っているが、別物であることが多い。

    この舞台では、カメラと書き物の登場人物が出てきたことで、さらに舞台の上のレイヤーが1枚追加された。
    彼ら、最初に登場したカメラマンらしき男と書き物をしている男(女性が演じているが)も、戯曲の中の台詞を言うのだが、「舞台の上」のレイヤーへの影響はなく、どこか客観的である。

    カメラマンは、「中」の「舞台の上」に向け、まるで自嘲するように、絶えず笑う。彼らは1枚外側のレイヤーにいるようだ。観客はさらにその外側のレイヤーからそれを眺めている。

    チェーホフ『三人姉妹』から切り取られた台詞が、時間と空間の隔てなく、演じられていく。
    レイヤーという言い方を続ければ、それぞれの時間、空間のレイヤーが目まぐるしく重なり合い、作品を形作る。
    観客からは、レイヤーを意識することも、ないものとして観ることも可能だ。

    前に観た、『かもめ』では「内側と外側、外側と内側、それらが絡み合っている」と感じたのだが、その手法はここでも発揮されていた。
    そしてそれがさらに一歩深まった印象だ。
    フランスで得たもの、フランスの俳優との接触で得たものがそこにはあるのではないか。

    『三人姉妹』をすべて舞台の上に撮り上げているのではないようで、演出家の手によって、その中のシーンやエピソードが強調されていく。

    最初に印象に残るのは「労働」のこと。
    三女のイリーナは電信係のはずなのに、彼女の動きはとても重労働に見え、終わりのない同じことの繰り返しのようだ。彼女には労働への理想があったとしても、彼女自身が感じているのが、その際限のない、不毛とも見える、その動きなのである。誰かが話し掛けていても、それは繰り返される。
    軍人(男爵? 軍医?)も労働に対してはひと言あるようだが、どこか他人事のように聞こえてしまう。

    次に印象に残るのは「数百年後」の世界のこと。
    ヴェルシーニンが、しつこく、2、3百年後のことを語ってくる。
    その話題がほかの人たちに受け入れられているようには見えないのにだ。

    3人の姉妹は、親の残した屋敷に住んでいる。「モスクワへ」といいながらも、田舎の町にとどまり、長男や夫や仕事にうんざりしている。

    リゴレットの「女心の歌」のメロディが要所要所で差し挟まってくる。
    「風の中の羽根のように……女心」と。それは3人姉妹のことを歌っているようだ。

    3人姉妹のところに訪れる軍人たちは、何もすることがなさそうで、やはり毎日をうんざりしているのではないだろうか。
    彼らの会話は、時間つぶしにしか見えず、「話のための話」の感じさえある。

    ただし、登場人物の1人が客席を向いて、熱っぽく語るシーンだけは、他の登場人物も観客側に向き直ることで、急にこちら側に近寄ってくるとろこもある。
    まるで「扉」を開けたようであり、それは、観客側に開いただけではなく、「未来」に開いたように感じた。
    つまり、ここがこの舞台のポイントであるように感じたのだ。

    この舞台は、日本人とフランス人の役者が立ち、日本語とフランス語の台詞で上演している。
    日本語とフランス語で会話が成り立っていて、劇中の登場人物たちはそのことに関して違和感はない。
    先の「レイヤー」で言えば、「言語」というレイヤーが、舞台にさらにあるということ。

    台詞はすべて日本語と英語の字幕で舞台の後方に表示される。
    座席の問題か、私の席からは字幕の前半分が薄くしか見えないので、台詞のすべての文章を読むことはできない。
    それだけではなく、長い台詞を早く言われると字幕表示のテンポも速まり、すべてを読む前に次の字幕が出てきてしまう。

    しかし、それに対するストレスは感じない。

    細かく台詞を読もうという気が最初からあまりなかったからかもしれない。
    全部を丁寧に読んでいくと、演劇ではなく、字幕を観に来ていることになってしまうということもある。
    『三人姉妹』のストーリーはばんやりとしか覚えてないから、今どのあたりなのかも、ぼんやりとしかわからない。しかし、台詞の「音」と役者の表情、そして全体を貫く「美しさ」溢れる舞台の上の出来事を眺めているだけで、楽しめる。

    どのシーンの、どこの一瞬を切り取ったとしても、すべてが「絵」になる。「美」がそこにある。
    役者の位置はもちろん、動きもライティングも、台詞さえも、舞台の上の「あるべき場所」に位置しているように見え、それが絶えず変化していく。
    万華鏡のようでもある。
    それがまた、「動かされてそのポジションにいる」という印象がないところが素晴らしいのだ。

    そうした作品を、前半は緊張しながら観ていたのだが、後半からはやったりした気持ちで観て、楽しんだのだ。
    細かく台詞を追っていなくても楽しめた。後で「そう言えば火事はあったかな?」などと思ったりもしたのだが。

    フランスの役者−−特に次女・マーシャ役の女優さん−−の表情が素晴らしい。
    日本の役者では観ることのできない表情を見せる。
    それには息を飲んだ。
    日本の役者さんたちも、フランスの役者にはできない演技・表情をしているのだろうか、と思った。

    最後のほうでマイクを使ったのは、DAIKAIJU EIGAの引用……ということはないか(笑)。

    この舞台は、1日だけの上演だったのは、やはりもったいない。
    もう1回、別の角度から観たいと思ったほどだ。

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    2013/11/04 22:30

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