もしも僕がイラク人だったら 公演情報 カムヰヤッセン「もしも僕がイラク人だったら」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    物語る力
    戯曲の力に加えて、
    それを丁寧に場に編みあげ、
    観る側を世界に導いていく
    役者達の力量に惚れ惚れしました。

    ネタバレBOX

    展示を眺めて、席について暫くすると、
    挨拶とボーダレスに物語が語られ始めている。
    噺家がこう、会場の雰囲気に合わせて、
    時節の話題をふるような塩梅で、
    客席の空気をうまく束ねて、
    羽織を脱ぐ代わりとでもいうように、すっとライトのトーンを変えて
    観る側を役者の語りに引き込んでしまう・・・。

    すると、奥に映し出された影が、
    地語りのごとく物語の世界を観る側に広げ始める。
    語り手の想像として語られるものが、次第に自らの呼吸を始め、
    その呼吸は映像に重ねられ、
    映像を眺める想像上のロールの感覚となり
    そのロールを担うもう一人の役者に渡されて・・・。
    気がつけば、想像の枠組みが解け、
    湾岸戦争時のバクダットの市井の生活の風景のなかで、
    彼と家族の姿が浮かび、
    彼のパソコンに繋がる世界の先までが現れてくるのです。

    役者の語りが紡ぐ戦時下のバクダットには日常があって、
    彼が、そして弟や母が、暮らしていている日々の風景があって、
    思春期の弟のエピソードも、アラブ人の母親の風貌も、
    誇張なく、ロールの記憶の如くに彼とともにある。
    戦火は彼の住むアパートに及び、語られた日々は記憶となり
    世界の在り様の俯瞰となりさらに観る側を繋いで。
    そして、想像が満ちた先で、再び最初の語り部に物語が戻され、
    流された歌の歌詞が、観る側に流れたバクダットの時間に交わるとき、
    人が本質的に持ち合わせている、殺戮の身勝手さや
    どうにも行き場のない人々のの無神経さと殺戮のベーストーンに
    鈍く深く心を捉えられる。

    駄弁に始まった物語は、駄弁の世界に戻るけれど、
    観客はもはや駄弁の世界と現実のボーダーの区別すらつかず、
    その戦争の話は、もはや遠い国の見知らぬ時間の出来事ではなくなっていて。
    終演時には、2人の役者が導いたバクダットとロンドンと東京に流れる時間の
    一元的なありようと、貧富や戦争の理不尽と人が根源的に抱きうる感覚のありように心縛られているのです。

    正直にいうと、役者が物語に観客を導いていく道程と、そこから戻る道行きにほんの少しだけ質量の違いを感じたりもして。観客が抱いたものに対して、戻りが、たとえば歌詞の訳をかたるシーンはもう少しだけ強く切り出されてもよいかなぁとはおもった。観る側を物語から観客を解放する足どりがほんの少しだけ淡白に思えたりもしました。
    でも、それはきっと、役者の演技がここまでに研がれているからこそ感じること。

    観終わって、、舞台が設定された場所の、椅子がひとつとスクリーンの殺風景ですらある空間を暫し眺めて、
    そこに世界を描いた作品と役者の秀逸さに改めて舌を巻きつつ、改めて演劇という表現の力について想いを馳せたことでした。


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    2013/10/08 18:01

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