被告人~裁判記録より~ 公演情報 アロッタファジャイナ「被告人~裁判記録より~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    被告人の「生の声」とはいかなるものなのか
    「実際の裁判記録」を舞台化した作品であり、「実験公演」ということなので、てっきり、リーディングか、それに近い法廷劇になるのではないか、と勝手に思っていた。
    しかし、そうではなかった。

    約120分の上演時間だったが、面白く、あっという間に時間は過ぎた。

    <個人的にオススメする見方>
    どれも有名な事件なので、ある程度知っている人はそのまま劇場に行き、当日パンフレットに目を通さずに観劇したほうがいいと思う。
    もし、よく知らない事件があったとしたら、ネットで軽く検索して、事件のあらましと被告人についてざっくりと知っていたほうがいいと思う。もちろん、当日パンフレットには目を通さないほうがいいと思う。

    なぜ。当日パンフレットに目を通さないほうがいいと思うかと言えば、それぞれの事件のどの部分を、どうやって見せてくれるのかを、直接自分の目で楽しんだほうがいいと思うからだ。

    つまり、自分がなんとなく知っていた事件の内容と被告人のことについての知識と、実験主(松枝さん)が見せたい内容との違いを楽しむことができるからだ。

    <ネタバレ>は、つい調子に乗って書いてしまったので、もの凄く長文です。

    ネタバレBOX

    舞台は、当然、裁判の内容をすべて見せることはなく、裁判記録から抜粋した内容である。
    したがって、ストーリーとしての「起承転結」があるわけではなく、「実験主」(松枝さん)が膨大な記録の中から、「被告人のナマの声である」と判断したものを舞台にかけたようだ。

    したがって、「実験主」の解釈がそこにある。さらに言えば、「登場人物をどの役者に演じさせるか」ということも大切な「解釈」であろう。

    その「実験主」の「解釈」と、観客が「自分」の「解釈」とを擦り合わせるところに、この舞台の面白さが生まれてくる。

    内容はと言えば、まさに説明文にあるよう「事実は小説より奇なり」だった。

    それぞれの事件(被告人)のチョイスも面白かった。
    もちろん、時系列として(最初の2本は少しだけ違うが)徐々に過去に進んでいくのだが、被告人が「なぜ犯行に及んだのか」と、彼らの「立ち位置」が微妙に変わっていくことに注目した。

    すなわち、「秋葉原無差別殺人事件」は「個人と家族」、「連続不審死事件」は「個人と世間」、「日本社会党委員長刺殺事件」は「個人と国内の左派(狭い意味での国・体制)」、「226事件」は「個人と体制(国家)」、「異端審問裁判」は「個人と神」となっていく。

    つまり、「個人」の想いから発せられたものであり、それが「どこから」あるいは「どこまで」及んでいるかという点が、5つの事件では異なり、時代を遡るにしたがって、その範囲が広がっていくのだ。

    もちろん、「226事件」であっても、被告人の磯部浅一が生まれた境遇という点にスポットを当てれば、「家」という軸は見えてくるのだが、それでも「秋葉原」の事件とは影響は異なっている。

    したがって、一見、簡単に裁判記録から「面白そうなところ」を抜き出しただけに見えるのだが、事件そのものの持つ背景のようなものに、きちんとフォーカスして選んだという点に、実験主(松枝さん)の鋭さがあると思う。

    1つのエピソードは、わずか20〜30分程度なのに、実験主が宣言しているように「被告人のナマの声」が浮かび上がってくるのだ。

    また、俳優が演じることで、被告人たちは「顔」を得た。「肉体」を得た。
    それは、単に実在した人をなぞるように、あるいはモノ真似のように「再現」するのではなく、実験主の「意図」により生まれてきた「顔」や「肉体」だ。

    被告人たちが、「ああいう姿」で「あのような語り口」で「あのような話の展開」をもっていた、という、たぶん現実とは違うであろう「ナマ」の姿を見せていたのだと思う。

    観客はそれにまんまと乗せられたと言っていい。
    先にも書いたが、観客の持つ「イメージ」との擦り合わせが、そこに生じることで面白さが生まれたのだ。
    つまり、実在する人物たちを描いているのだが、実験主の意図として被告人を「再現」しているのであって、実在の事物を(モノ真似のように)「再現」しているのではない。だからイメージの「齟齬」が生じるわけだ。

    そういう意味では、実験主から見れば、「意図した脚色」と「意図せざる脚色」の合間から生まれた本作品は、「実験劇」と言っていいだろう。

    以下、それぞれについて感想を述べていく。

    (1)秋葉原無差別殺人事件(被告人:加藤智大)
    この舞台は、弁護人と被告人のやり取りを再現している。
    役者が出てきて、「これは被告人と弁護人の役者は逆では?」と思ったが、それが実験主の意図だったのだ。
    われわれが事件の報道で見ている被告人の容姿が、どちらかと言うと弁護人のほうがイメージがより近い。メガネまで掛けている。
    逆に被告人はメガネすら掛けておらず、ここで「モノ真似」ではないし「再現ドラマ」ではないことがわかった。
    つまり、そういうことなのだ。これらは「実験主の意図の中にある」ということだ。

    被告人の表情を見て、さらに彼と母との関係を聞いていくと、観客の中にある種の感情が生まれてくる。そこが「ナマの声」たる所以なのだろう。

    事件については、マスコミの報道しか知らなかったので、その中では「母親の過剰な教育熱心さ」や「過剰な躾」のようなことは聞いた覚えがあったが、彼が受けていたのは、そのレベルではない常軌を逸した「虐待」だったのだ。
    これには正直驚いた。


    (2)連続不審死事件(被告人:木嶋佳苗)
    まるで再現ドラマのように演じられる。裁判記録のはずなのに変だなと思っていたら、ラストに近いところで「ボイスレコーダー」出てきて、なるほど、と思った。
    それが裁判記録の中にあったものだったのだ。
    ラストでは、脚色が加えられていたようで、被害者の娘は飲み物に薬を混ぜられて、被告人の手にかかってしまうことを暗示させた。

    たぶん、この後、被告人の木嶋佳苗についてニュース等で報じられることがあったとすれば、ここで被告人を演じたナカヤマミチコさんの口調を思い浮かべてしまうだろうと思った。

    今まで私が持っていたイメージを簡単に塗り替えられてしまったというこだ。
    あまりにも「(彼女の世界の中で)普通」すぎているからだ。


    (3)日本社会党委員長刺殺事件(被告人:山口二矢)
    被告人がいる鑑別所を訪ねた少女と被告人の会話である。
    面会室の内容は、裁判の記録として残るわけがないので、たぶん被告人が何かの中で裁判中、あるいは取り調べの中で供述しものであろう(先に「連続不審死事件」のほうを見ていたので、裁判記録とは、単に検察官や弁護人とのやり取りだけではないということがわかったので、そうではないかと察した)。

    ここはまさに実験主のイメージが炸裂していたと言っていいだろう。
    当時の面接室はどうであったのかは知らないが、ガラス越しの刑務所とは違い鑑別所なので同室で会うことはできただろうが、相手に触れることはできなかったと思う。

    そういう事実とは別に、ここで語られるのは「少女が被告人を想う気持ち」、つまり(被告人の証言なのだから)「被告人から見た少女は、自分をどう想っているのか、ということの妄想」であるから、「触れない」ほうが、少年である被告の感情が切なく、よりヒリヒリと表現できたのではないかと思うのだ。

    したがって、「触れてしまった」ということは、被告人が抱くイメージ(妄想)を、より「ナマ」にしたとは思うのだが、脚色が少し多かったかなとも感じた。


    (4)226事件(被告人:磯部浅一)
    被告人と彼の後輩にあたる法務官との会話。
    ご存じのとおり226事件だけは、この公演の中で被告人が1人ではない事件である。
    その中で、この被告人は多くの将校たちとは違い、貧農の出だというところで特にクローズアップされることが多い。三島由紀夫の著書にも出てくる。
    したがって、事件の本質を語らせるには適役だということなのだろう。
    被告人からほぼ一方的に語らせることで、彼の理想とその敗北が浮かび上がる。

    脚色度がやや高く、毒薬を渡すところなどは裁判記録には残っていないものと思われる。
    また、法務官が出て行った後の、被告人の独白ももちろん裁判記録にはないものだ。
    当日パンフレットによると、被告人の「獄中日記」も使われていることからそこからの引用だろう。

    ラストの被告人の、血を吐くような独白は、彼の主張の肝であったわけで、伝え聞く史実によると、彼は(たぶん北一輝も)処刑のときに「天皇陛下万歳」を叫ばなかったことに通じていくわけだ(彼とは違い処刑された将校たちはそう叫んだらしいが)。それを思わせる叫びであった。
    うまい脚本だと思った。

    これは、実は次のジャンヌ・ダルク裁判に通じていくようなイメージがある。

    どうでもいいことだが、劇中に出てきた北一輝の著書を読みたくなってしまった。まさか実験主の意図通りではないとは思うが……(笑)。


    (5)異端審問裁判(被告人:ジャンヌ・ダルク)
    先の4つと比べてかなり異色。
    被告人と神の使いらしき男との会話。
    当然脚色率は高い。

    被告人が「異端審問裁判」に掛けられたのは「神の声」を「直接聞いた」ことによる。
    なのに、神の使いとの会話という形になっている。

    その中で話し合われるのは「被告人が神の声を聞いたというのは嘘であった、ということを認めサインをした」ということについてだ。

    正直、神のこともキリスト教のこともわからないが、彼女の中でどのような変化があったのか、あるいはなかったのかが語られていく。
    そして、彼女が死刑判決を受けることになる決定的な出来事の発端も、その会話の中でさりげなく描かれていくのだ。
    ロウソク一本の演出もいい。
    短いのに、やはり面白い。

    ただ、個人的な意見としては、ラストも日本の事件にしてほしかったと思う。
    「個人と神」という関係で言うならば、江戸時代のキリスト教弾圧のころに裁かれた被告人を扱っても面白かったと思うし、226でも触れられた天皇機関説事件でもよかったのではないかと思った。


    この企画、とても面白かった。
    できれば続けてほしい。あるいはどれかの事件をさらにクローズアップさせて1本の作品にしても見応えあるのではないかと思った。

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    2013/08/29 05:49

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