不思議の国のアリス 公演情報 公益財団法人日本舞台芸術振興会「不思議の国のアリス」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    22,000円は高かったが,一度くらいはこんなぜいたくもいいものだ。
    バレエ・リュッス(Ballets Russes)の衝撃というのがバレエ界ではかつてあった。今回の英国ロイヤル・バレエも少し関係がある。

    1909年,ロシア人セルゲイ・ディアギレフが,登場する。以後,20年間彼の人気は続く。ロシアのバレエは,どのようなものだったか。

    ナポレオン三世の治世は失敗だったが,フランスでのバレエは発展した。かつて,絶対王政期に宮廷バレエが成長したことと似ているかもしれない。

    ロシアとフランスは,歴史的に非常に親密な時代があった。ロシアという国は,アジアでもある地域を抱えているので,その分ヨーロッパの人たちにも神秘的なのである。一方,ロシアという国は,公的なことばはフランス語にした方が良いのではないか,というくらいフランス趣味の国でもあった。

    というわけで,ロシアとフランスは,相思相愛の仲良しだった時期がある。ことバレエに関しては,フランスがダントツであったが,ロシア人のセルゲイ・ディアギレフによる,バレエ・リュッス(Ballets Russes)は衝撃的であり,バレエ史の中でもその影響力は20年間も継続された。今回の,英国ロイヤル・バレエも実は,そこで活躍した人が,イギリスにわたって一派を起こしたものなので,演劇手法等似たようなところが見える。

    セルゲイ・ディアギレフは,自分自身で,音楽・振付・装置を180度変えた。さらに,肉体派の男優を初めてバレエの中で使うなど,改革を実行し,時代の先端を走った。『不思議の国のアリス』においても,その手法が継続されていた。

    バレエ・リュッスが,衝撃的で,歴史にも名を残した理由は,いろいろある。彼は,少し変な人で,立派な仕事仲間も演出を斬新に進めるためか,次々手を切っている。バレエの地位は,少しずつ安定し,高尚な総合芸術として世界的に評価され愛されていくのだが,ひょっとすると,オペラなどでは,まだことばに頼る部分が大きいが,バレエになると,ただ観ていれば良いということが大きいのだろうか。

    今回,コンダクターとほとんどキスできそうな場所,中央の一番前で観劇した。なんどもなんどもブラボーといってしまった自分がいた。

    いずれにせよ,オペラと,バレエの歴史は錯綜している。オペラ=バレエなることばもあったようだ。概して,バレエは,オペラの添え物で,副次的な意味しかなく,次第に勢いをなくしつつあったのかもしれない。そのような時に,セルゲイ・ディアギレフという人は,20年間やりたい放題やってしまう。『牧神への午後』なども有名だが,そういう流れに中で存在したようだ。

    セルゲイ・ディアギレフは,1916年には,アメリカ合衆国にわたっている。1919年には,パリ・オペラ座で,活動を再開している。バレエ・リュッスは,海外公演で人気を得て名をあげていく。劇場にいったらストライキに会う時代となる。英国ロイヤル・バレエについて,まだ,本になったものを知らない。しかし,パフォーマンスの時代にさっそうと新作のレパートリーを広げているとのことだ。22,000円は高かったが,一度くらいはこんなぜいたくもいいものだ。

    参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)

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    2013/07/08 19:13

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  • オペラ座は,1669.6.28.誕生した。ルイ14世は,オペラを上演する「アカデミー」創立に関する勅許状を,ピエール・ペランに送る。独占営業権を認めたことになる。バレエを重視したルイ14世は,1661年に,王立舞踏アカデミーを創立した。この頃,イタリアでは,オペラという新しいジャンルの舞台芸術が発展する。近年イタリアでは,アカデミーができ,オペラを上演する。イタリア風のオペラを,フランス語で創作し,それを実演するオペラ座が必要となる。

    アカデミーは,「組織」「団体」,要するに「歌劇団」。初代総裁は,ピエール・ペラン。彼は,球戯場の誓いで有名な,ジュ・ド・ポームを借りる。客席は,1200-1400ほど。彼は,負債で投獄され,かわって,ジャン=バティスト・リュリが浮上する。リュリは,まず,フランス語はオペラに向くか疑問視する。ペランから,オペラ座の営業権を買い取る。「王立音楽アカデミー」となる。

    モリエールが死ぬ。パレ・ロワイヤル劇場がオペラ座になる。ここから,リュリは独走する。モリエール考案のコメディ・バレエ=舞踏歌劇は発展していく。演劇と舞台の統合。もともと相性は悪いかもしれない二つの芸術は融合する。ここに,振付師として有名な,ピエール・ボーシャンの名前があがる。

    ロイヤル・オペラ,ロイヤル・オペラ,などとイギリスでは言う。イギリスでは,このロイヤルの使い方は結構おおらかだ。王室が経営していないものでも,宮廷御用達的に名乗る場合も多い。ロシアに比べて,イギリスは少しゆるい。

    オペラ座は,1669年前後を境に,宮廷バレエは,新しい時代に突入する。オペラ座は,中心はあくまでオペラである。やがて,アマチュアは消え,プロが踊る時代になる。オペラ座に史上初の,四人のダンサーが登場する。そして,ジャン=バティスト・リュリは亡くなる。宮廷バレエは,場面の連続だ。ひとつひとつアントレがある。やがて、ロココ時代になる。

    オペラや,バレエの多くは,この時代,神話ものばかりだった。1713年,ルイ14世は,オペラ座に関する規則を定めた。オペラ座の歌手は,14人。ダンサーは24人となる。バレエ学校が正式に設立する。1715年に,ルイ14世は死に,軽佻浮薄なロココ時代にはいった。一方で,仮面舞踏会も頻繁となる。

    ここで,ルイ・デュプレが登場する。衣装革命も起きる。ここから,名手の時代が始まる。

    デヴロッペ=片足で立つ,もう一方の足を頭上にもちあげる。

    また,デュプレの後で,アントルシャ=跳びあがりながら,両足を交差させる。女性の踊り手に注目が集まる。

    参考:オペラ座の迷宮(鈴木晶)&バレエの歴史(佐々木涼子)

    2013/07/10 20:38

    発祥当時のバレエは,フランス王の権力と光輝の芸術的表現そのものだった。

    最初のバレエは,1581年10月15日に,カトリーヌ・ド・メディシスによる『王妃のバレエ・コミック』(ボージョワイユ作)だった。フランスを統一したフランソワ一世も,国内で,カソリックとプロテスタントの対立が激化して,これに頭を悩ませていた。このころ,聖バーソロミューの虐殺もあった。

    『ポーランド・バレエ』は,体裁は,ほとんどバレエであったが,そこに,スケールとか,輝かしさが不足していた。1578年バレエballerという語が,文献に出現する。中世フランス語の踊るという動詞である。『王妃のバレエ・コミック』は,スペクタクルである理念を明確に打ち出した最初の作品となる。バイフは,音楽にアクション(演技・筋)や,ドラマチックなスペクタクル(演出)と結びつけて,古代ギリシアの演劇を再現しようとした。異端視されたガリレオ・ガリレイが,まだ少年だった頃の話である。

    「諸芸術の融合」こそは,バレエに欠くことができない重要な理念であった。『王妃のバレエ・コミック』は,どのようなバレエだったのであろうか。神話の人物は,台車に乗って観客の前に登場する。演技者と観客の交流は,直接的で密度が高く,細心に計算されていた。泉を模した台車の上には,12人のネレイス=海の精がいる。その周りに8人の半人半神海の精=トリトン。ネレイスたちは,ヴァイオリンの音に合わせて,幾何学的な図形のバレエを踊る。最期は,王の勝利を40の行進と,図形からなるグラン・バレエで祝う。

    乱世から,平和で秩序ある世への移行を王権に託し,その希望を快い音楽と一糸乱れぬ整然としたダンスで彩ってみせた。諸芸術の要素を融合させ,神話を用いて哲学的な観念を表現し,政治の安定を表現する道具としての『バレエ・コミック』が完成した。バレエに,スケールとか,輝かしさが重要視された理由は何か。それは,発祥当時のバレエは,フランス王の権力と光輝の芸術的表現そのものだったからだ。

    参考文献:佐々木涼子『バレエの歴史:フランスバレエ史,宮廷バレエから20世紀』

    2013/07/10 06:11

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