若手演出家コンクー2012 最終審査   公演情報 一般社団法人 日本演出者協会「若手演出家コンクー2012 最終審査  」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「絶対の村上くん」
    今回の作品は自分は一度大阪で観ていました。

    なので、以前と比べて作品がどう変ったかは勿論、東京の観客の反応も少し気になったり。

    物語の構造としては非常にシンプルな二人芝居なのに、
    だからこそというのか、
    心理的には非常に複雑な愛憎が絡み合い、
    どこまでが現実で、どこまでが夢なのか分からない作り。

    少し、年末に春風舎で山崎氏が上演していた「マボロシ兄妹」を思い浮かべたり。

    今回観て、改めて作者の独特な世界が良く分かった気もする。

    ネタバレBOX

    主人公は、せいぜい佳作どまりの冴えない小説や俳句などの制作に没頭している。

    ただ、その部屋はどうも特殊な環境のようで、それがどうやら独房らしいことが徐々に分かってくる。
    親友がたびたび差し入れを持って彼を訪れる。
    とても親切で文才もあり、良い奴のようである。

    そのうち、何をして刑務所にいるのかが分かってくる。
    どうやら主人公は自分の家族と、その庭にいる多数の鶏を殺して
    家に火をつけたらしい。

    でも、そんなことからかけ離れた、毒にも薬にもならないファンタジーを書いて応募したりしている。
    そこに鶏のヘンリーが現れる。
    ヘンリーは優雅にお茶を飲みながら、
    主人公に現実の体験をそのまま書けと言う。

    彼は、その場の湿度や体温も含めた殺人現場の光景を
    眼に火が付きそうな表情で、熱狂的に演じてみせる。

    彼が自分の家族を殺したことは、疑いが無いように思われる。

    ところが、途中から殺されたのが実は主人公の両親ではないことが分かってくる。

    どうやら、殺されたのは主人公の家族ではなく、
    親友の家族であるようだ。

    じゃあ、なぜ主人公は、自分の家族を殺したように演じてみせたのか?
    なぜ、自分の家族を主人公に殺されたハズの親友は、足しげく義務のように主人公を訪ねるのか。
    そして、良い奴でいることを途中で急に止めるのはなぜか。

    あくまで自分の想像だが、
    主人公は、どうも両親や鶏を殺した親友を庇ったようだ。

    ・・と言えば聞こえはいいのだけれど、
    実は主人公は以前から、内心非常に特殊
    (親が鶏ばかり拾ってきて、家じゅう鶏の臭いまみれのため、家族みんな地域で疎まれている)
    で、創作環境にはうってつけと思われた親友のことを羨んでいる。

    主人公にとっては創作がすべてのようだ。
    どうやら自分(普通の家庭環境であるようだ)に文才が無く、
    親友に文才があるのは、その特殊な家庭環境にあると信じて疑わないようだ。

    自分が励まして親友に書かせた作品は、
    主人公にとっては眩しすぎる(といっても小さな)賞を取り、
    この上、家族まで殺して、特殊な生い立ちに磨きをかけるとあっては、
    もう一生自分の手の届かない(文字通り(苦笑
    所に行ってしまう。

    主人公は、親友と殺人者の役割を交代することで、
    罪の代わりに人殺しの体験を得て、
    わざと自分を追い込んで創作に向かって、作品を公募し続けているようだ。

    親友も最初は気にして面会に来るものの、
    途中から独房で生き生きと駄作の制作に没頭する主人公にそっけなくなり、
    「ふたり一緒に文豪になる」という夢を捨てて就職したことを適当に告げる。

    主人公はがっかりするが、
    それは親友のことを気にするのが、純粋に親友の文才によってのみであることを
    露呈するだけのことだった。

    親友はその後、ゲイ?になって店を持ったと主人公に伝えに来る。

    ここで、やっと、主人公は親友の文才しか見ず、
    親友は主人公のことを、恋愛対象としてみていたのではないかと(あくまで想像だが
    感じられてくる・・。
    (もちろん、過去の「人を殺した自分」と決別するためにそうなったとも読み取れると思う。いくつかの読み取りが可能な所が、この物語の面白さだと思う

    しかし、主人公は執筆に没頭し、親友の変化から、その心情を読み取る事が出来ない。
    彼にとっては、執筆こそがすべてのようだ。


    また、殺人の発端となった、
    鶏の頭部がその親友の家の前に置かれ、親友が精神的に追い込まれたと思われる事件も、
    よくよく考えれば、
    主人公の僻み(賞を取った親友を表では喜びながら裏では嫉妬している)かもしれない。

    そもそも、先ほど演じられた殺人風景も、そもそもが主人公のイメージなのか。

    良く考えれば、その光景は一人称で語られていた。

    とすると、その風景も、親友の目撃・体験・語りなのか。

    主人公は、親友の用意した渾身のシナリオを読みながら、
    その時の親友の心情と完全に一体化してしまったのか。

    しかし、せっかく血肉の滴る殺人風景の描写を手に入れても
    物語を語る才能のない主人公にとっては、
    想像の世界を描くことには限界がある。

    殺人の風景を自分のものとすればするほど、
    リアリティのある想像の世界をそこに継ぎ足すことが
    自分には難しいことが実感されてくる。

    結局は、実際の殺人を行った親友と自分との
    過去のやり取りに帰結してしまう。

    主人公は、リアルに親友のシナリオを自分の血肉とし、供述したためか
    無事に死刑囚となる。

    主人公は、そんな絶望的な状況にも関わらず
    目前の死によってかえって燃え上がり、
    死刑執行まで笑いながら作品を描き続ける。

    まるで執筆することが生きるすべてとでもいうかのように。

    鶏のヘンリーが出てきた理由をよく考えてみると、
    親友の家族を殺したのが、親友なのだとすると、
    その発端となったと思われる鶏の首を親友の家の前に置いて行ったと思われる主人公に、
    殺された鶏が祟ったのかもしれない(あくまで想像だけど

    非常に限定された空間のなかで、
    広漠な海や、時間の流れ、
    夢の景色、燃える家、玄関に置かれた錆びた銛で貫かれる両親、
    鶏の臭いが染みついた服を着て学校で疎まれる子供・・。

    自分も、育児放棄などで家でまったくお風呂に入れてもらえない子供たちのことを人づてに聴いたことはある。

    そういった、社会の中に実際にある悲惨な現実を
    幻想的な夜の海の描写などを絡めながら、
    あくまで登場人物たちは燃えるように笑い、踊ったりしながら演じる。

    なかなか気づきにくい疲弊した社会の中の出来事を物語の中に生かしつつ
    夢のように語るのは、
    非常にサリ氏らしいと思うし、
    あくまで自分の勝手に思い描く「大阪っぽさ」を体現しているようでもあり、
    素晴らしいな、と思ったりもする。

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    2013/03/08 00:33

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