満足度★★★
若者の悩み
若者とは即ち老人
絶対音感で作ってゆくクラシックの作曲にした所で、その原点を、モーツアルトが定めたわけではない。リルケの詩を若い頃に読んで、自分と同じことを考えている人がいたことに安心した経緯がある。精神世界の末端に位置する者にとって、その位置は、当に老人のそれである。結果、自ら単語の一つすら発明せず、新たな規則、規制や法則に則って生起する世界の秩序を証明したわけでもない。そんな知性が、身の回りの習慣やセオリーにがんじがらめになるのは、必然である。閉鎖系にあることでは、ちょうど、今の日本の閉塞状況のようだ。
一方、若さの持つエネルギーポテンシャルの高さと、彼らの社会的位置が、本来ならば、爆発力で情況に対峙し変容を迫ったはずだが、現下の日本ではそれも望めまい。寧ろ、このような閉塞的情況が、彼らの辺縁系での存在、そして、そのレゾンデートルを規定している。表現者太郎とする彼らは、それ故に、我々の存在の根源に、食、性、眠りを通じて迫ろうとしたのだ。つまり辺縁系からカオスの中へ入り込もうと欲したのである。結果、彼らの体験するカオス的状況内で、辛うじて、詩的な言語を紡ぎだそうとすることにより、また、その尖鋭な感覚によって、境界領域を時々は、掬いあげることに成功している。無論、所謂、演劇論や学校で教えられる行儀のよいノウハウに立てば、いくらでも突っ込みどころはある。然し、演者、スタッフなどの関係者が求めたのは其処ではあるまい。何より、何が、自分達の周りで起こっており、それが、自分達のムーブメントに如何に作用し、自分達はいかなるアクションを起こして対応すれば正しいのかが、分からない。その分からなさ、その展望の無さに対して、いかなるアプローチが可能なのか分からない。それで、信じてもいない儀式というホルダーに自分達を投げ込んで見た、ということではないか? そして、必然的に瓦解した。この点は分かっていたはずであるにも拘らず、諸般の事情を理由に突っ走って、臍が見えてしまった。その責任を誰が取るのか? といった既定の価値観でしか自分達を縛ることができなかった点に、現在の彼らの位置があり、その限界もあるのだ。だが、我ら生き物は、そのようにして、我らの存在領域を広げて来た。実際には、他の多くの生き物との共生を実現することによって。情況に対する適応力を増して来たのだ。正解など無いかも知れぬ。そのような解は在り得る。だが、それが分かれば、他を試せばよいのだ
一つだけ具体例を挙げておこう。現在、ヒトに対応できないことが明らかな事実は、核の塵である。百万年から数百億年という長期にわたれば話は別だが。というような問題を客体化し得た時、ヒトは、自由を得る。その時初めて、ヒトは、ヒトの歴史に新たな1ページを付け加える可能性を持つのである。我々に関わる問題としての核については、以上の説明で明らかなように、合理的な解決が不可能と分かった時点で、その技術は捨て去るのが正しい。といった具合だ。