朝がある 公演情報 ままごと「朝がある」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    素粒子は孤独か?
    芯も表現方法も、いつもの「ままごと」だったと言えばそうかもしれないのだが、このスタイルは心地良い。

    ネタバレBOX

    音楽とのコラボがいつもうまいと思うが、今回はさらに音楽が重要だった。
    音楽のライブのように、楽曲の紹介があり、MCがあり、という構成。
    すべての曲が「朝がある」。

    「神」の目で、朝の、通学で、くとゃみした女子学生の一瞬が、角度を変えながら歌い上げられる。
    それは、光のベクトルで虹の色が7つになっていくように、屈折の角度を変えていく。
    徐々に彼女の周囲風景が描き加えられていき、音が加えられていく。
    絵画というよりは、セルアニメの作成現場を観ているようで、彼女のクシャミをした一瞬の、背景が描き加えられていく。

    太宰の『女生徒』における、「いま」が一瞬であること、毎日の繰り返し、喪失感のようなものがその底に響く。

    さらに、音楽が、例えば、「サビ」から作曲されていくように、1つの楽曲になっていく。
    この場合は、いわゆる「詞先」による作曲。

    出来上がる、一瞬、一瞬を楽しみながら観劇する。

    組み上がっていく「画」と「音」には、それぞれの「因子」がある。
    ミクロコスモスのごとき、素粒子の世界と、ドレミ、イロハ、CDEの音の世界。
    世界はひとりぼっちの、いろんな要素で成り立っている、というのは、感傷的すぎるかもしれないかな。

    素粒子が結び付き、原子になり、原子が分子となり、物体を構成していく。
    一音、一音が結び付き、和音(コード)を構成し、音楽になっていく。
    言葉と言葉が結び付き、台詞(文章)になり、物語になっていく。

    それらは、物体や和音や文章が単にできるだけでなく、「意味が生まれていく」ということなのだ。
    舞台の上では意味が生まれていく。当たり前かもしれないが。

    また、1つひとつは、別のものであっても、結びつくことで(あるいは、結びつくことに)意味があり、「つながり」を感じるのだ。

    それは、亡くなってしまった幼なじみであったり、MCで紹介された男であったり、でさらに感じる。

    MCとして紹介された「朝が来なければいいのに」などの、男のつぶやきというか呪いの言葉は、学生の頃だけでなく、社会人になってもずっと布団の中でつぶやいていただけに、つい笑ってしまった。
    「自分がいなくなればいいのか」と言った彼を助けるのは、結局「つながり」なのだろう。

    そうした、視野を変えつつ、彼女の世界は彩りを増やしていく。

    なのに、はじめに書いたような、アニメのセルのような薄い印象は拭えない。

    たぶんそれは、「私」の中の部分、「物質」ではなく、「私」の心のミクロコスモスへの掘り下げが感じられなかったからではないだろうか。「私」の話ではなく、男性が語る「彼女」の話だったせいもあるのではないかとも思う(別に、ここで太宰の『女生徒』に結びつくわけではないが)。
    この一瞬を持ち上げたら、セル1枚と背景画1枚という感覚かある。
    しかし、その2枚には「世界」があるかもしれない、という感覚もある。

    出来上がった「画」と「音楽」はどこか切ない。
    「歌声」から来るものと、「物語」から来るものだろう。

    ちょっとした仕掛けがあるセットはよかった。まるで石積みの城壁のように観客に対峙して立っていたのが、温かささえ感じられるようになった。
    最初は、一人芝居には少し大きすぎるのでは、と思った舞台のサイズも丁度よく感じられた。
    演出がよかったということなのだろう。照明も。

    「朝がぁーる」には笑った。その訳とかにね。

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    2012/07/05 07:15

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