骨唄 公演情報 トム・プロジェクト「骨唄」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    日本的なアンビバレンツ感覚 − 我一塊の肉塊なり −
    再々演ということもあり、とても安定した素晴らしい舞台あったと思う。
    しかし、良い意味でも悪い意味でも、桟敷童子風味。
    この舞台を観て気に入った人で、桟敷童子を観たことがないのならば、観るとハマるんじゃないかな。桟敷童子の濃厚さに耐えられるのであれば。

    ネタバレBOX

    緊張感があり、すこしの笑いも交えながら、桟敷童子で作・演をしている東憲司さんの作品が展開される。

    舞台セット(美術)はもちろんのこと、音楽の雰囲気さえも桟敷童子風味だ。舞台の広さをうまく使い切っているなと思った。
    劇中歌われる歌は、桟敷童子のもりちえさん作曲。
    これを大勢の役者で歌ったら、モロ桟敷童子だったのかもしれない。

    ただし、ラストの風車の感じは、想定内すぎた(桟敷童子で観たなという…)。

    九州地方らしき方言、土着の独自文化(風土、風習)へ新しい(都会)文化の侵食、生と死、そして風車、ついでに九千坊と、桟敷童子でも使われたアイテムやテーマが揃っている。

    ただし、桟敷童子と異なるのは、桟敷童子が「幻想」との虚々実々の中を彷徨う物語であるのに対して、『骨歌』は「現実」である。
    栞の幻聴も幻視も病気のために引き起こされたものであり、そこが辛い現実となる(幻想の余地はあるにせよ)。

    栞は、育てているエミューに名前を付け、潰されるときには涙さえしたのにもかかわらず、病気で正気を失ったときには、自分たちの文化を食べ尽くす異文化の象徴としてエミューをひどく嫌悪する。これは、栞の深層心理にある本音ではなかろうか。

    このアンビバレンツな感覚は、日本人が新しい文化を取り入れてきたときに、絶えず感じてきたことではないか(たぶん)。
    西欧に限らず、他国から文化・文明が日本にやってきたとき、便利だ、凄いな、と思いつつも、自分たちのアイデンティティである今までの文化をないがしろにしてきたことや、地方の都会化による、土着の文化の喪失などだ。

    受け入れながらも、どこか嫌悪しているような感覚、それは、受け入れている自分たちへの嫌悪かもしれない。

    そのような揺らぐ精神であるという前に、自分たちが「生きて」いる「存在」している「1個の肉(体)」であるということを示唆するような、彫刻する骨と肉(体)との関係、繰り返し出てくるエミューの「肉」というキーワードで、死と生だけでなく、そういうことを想起させる脚本はさすがだ。

    そして、3人の役者はうまい。
    どの人も魅力的。
    ただし、姉の薫役の冨樫真さんは、そこまでオーバーに演技しなくても十分に良さは出たのではないかと思う。もちろん、ユーモラスなシーンへの布石であることはわかるのだが。
    この演技の演出は、桟敷童子の役者さんたちならば、ぴたりとはまったのかもしれないが、冨樫さんのようなタイプの役者には違ったのではないか、と観ながら感じた。

    劇中で流れる、戸川純の名曲『諦念プシガンガ』は、曲も歌詞も、この舞台の雰囲気にとてもマッチしていてうまい使い方だと思った。
    「我一塊の肉塊なり」なんて歌詞は、まさにこの物語のためにあるようだ。
    この曲のあるなしで、この舞台の印象は大きく変わったと思う。

    桟敷童子ファンなので★は少し甘いかもしれない。

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    2012/06/30 07:55

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