深呼吸する惑星 公演情報 サードステージ「深呼吸する惑星」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    残骸の底から
     第三舞台は80年代後半から90年代にかけて、演劇界において確かに天下を取った。しかし、第三舞台とは何だったのか、演劇界におけるその功罪は、と考えた時、罪の方がはるかに大きかったと判断せざるを得ない。未成熟なアダルトチルドレンの自己肯定(=甘え)を、それらしい社会的なテーマやキワモノ的なガジェットで粉飾して、傷つきぶりっこな観客に媚を売ってきた、結局はそれが第三舞台の正体ではなかったのか。
     90年代後半当りから、鴻上尚史の舞台に失望させられることが多くなっても、それでも先入観は捨てようと思って観劇した。だから冒頭のキレのよい“いつもの”ダンスパフォーマンスには、懐かしさも含めて好意的に観始めることができたのだ。しかし、期待感はすぐに失速する。陳腐で幼稚な物語、学生演劇特有の間を無視したデタラメな演技、ぐちゃぐちゃな場面転換、虚仮威しの照明、既製作品及び自分たちの過去作からのパクリ寸前の引用と、「演劇がやってはいけない」ことのオンパレード。
     しかし、かつて彼らと「同世代」だった我々が応援していたのは、そのデタラメさゆえにであった。新劇などの既製作品にない爆発的なエネルギーだったのだ。だから「これは本当はもの凄く下手くそでつまらないのではないか」と感じつつも、あえて旗を振ってきたのだ。しかしデタラメは結局デタラメでしかない。そのことに観客は次第に気付いていく。この20年あまりで、第三舞台のメッキはすっかり剥げてしまった。元のファンの多くは自らの不明を恥じつつ、彼らのステージから離れた。
     「時代の寵児」でしかなかったことを痛感しているのは鴻上尚史自身であろう。第三舞台から産み出される新しいものはもう何もない。第三舞台は変わらない。変わり続けもしなかった。解散公演は、みっともなくモダモダと愚作を発表し続けてきた鴻上の、最後の潔さだと言えるだろう。

    ネタバレBOX

     舞台となる惑星の名前が「アルテア」と聞いて、なんだ『禁断の惑星』のパクリかとガッカリしてしまった。「人間の意識が具現化する」という設定も全く同じ。もっともこれはSF作品にはよく見られる設定ではある。しかし既製作品のアイデアを借りるのであれば、そこに独自のアレンジを加えるのが作家としての矜持だろう。鴻上尚史にはそれがない。
     同じアイデアを元にしていても、フレドリック・ブラウン『プラセット』はスラップスティック・ギャグとして昇華させていたし、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽の下に』は哲学的深淵まで覗かせてくれていた。梶尾真治『黄泉がえり』はリリカルSFの一つの完成形を見せてくれもした。『深呼吸する惑星』は先行作のどれと比べてもはるかに劣っている。

     鴻上尚史がSFファンであることは、これまでの作品に「引用」されてきたキーワードから容易に理解できることであった。それこそ藤子・F・不二雄『ドラえもん』からフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』あたりまで、幅広い読書量を誇っている。『ドラえもん』に至っては、自身で舞台化までしたほどの入れ込みようだ。
     しかしそれらのSFガジェットは、戯曲自体のテーマと殆ど絡むことなく、単に「自分が好きだから作品に引用してみました」程度の意味しか持ってはいなかった。それはそうだろう。それ以上にSFの提唱するテーマを自らのものとして内省し、作品として昇華させる能力が鴻上にはなかったからである。
     柴幸男『わが星』が岸田戯曲賞を受賞した時、選考委員の中で鴻上だけが唯一「ワイルダー『わが町』のままではないのか」と受賞に反対した。しかし、鴻上がこれまで何をしてきたかを熟知している者には、彼の発言の裏が容易に理解できるはずである。『わが星』は確かにワイルダーやブラッドベリ『火星年代記』をベースにしてはいるが、その上に幾重にも柴自身のオリジナルアイデアを積み重ねている。鴻上の「引用」にはそれがない。鴻上は自らの劣等感から、柴に嫉妬したのだ。

     もともと、自作に好きな作品をこれでもかというほどに引用しパロディ化する手法は、80年代、吾妻ひでおやいしかわじゅんら「ニューウェーブ」の漫画家たちが好んで行っていた手法だ。文学畑では栗本薫が評論『文学の輪郭』や『エーリアン殺人事件』でそれを試みていたのだが、鴻上は演劇でそれを大々的にやって見せた。それだけのことである。
     ところが演劇界の人間は、昔から文学方面にこそ眼を向けてはいたが(稚拙な文学コンプレックスゆえであるが)、漫画やSF、それらを含めたサブカルチャーの動きにはとんと疎かった。だから「鴻上尚史が新しく見えた」のである。単なる模倣に過ぎない底の浅さに気がつかなかったのだ。
     『テアトロ』2月号では、小山内伸が『第三舞台、「深呼吸する惑星」までの30年』と題して、その活動を包括し賞賛している。しかし、そこで小山内氏が指摘する第三舞台の三つの特徴、「複数の世界を並行してゲーム的に描く」「一人の役者が状況に応じて即興的に別の役に早変わりしたりする入れ子構造」「日常や社会を戯画化する一方で、物語は虚実の反転を繰り返して核や深層に到達せず、あくまで状況をオータナティブに示す」などは、全て、“漫画の中で吾妻ひでおがとっくにやっていた”ことなのだった。

     それでも鴻上尚史と同世代である我々は、彼とそして第三舞台を支持した。その「罪」は、結果的に、小劇場演劇に安易な笑いとベタな人情話を浸透させる結果となってしまった。
     更なる第三舞台エピゴーネン、たとえば演劇集団キャラメルボックスや劇団☆新感線、ヨーロッパ企画といった劇団に至る、「演劇って、この程度でいいんだ」という「極めて低いライン」を産み出してしまったのだ。
     鴻上は、『深呼吸する惑星』のパンフレットの角田光代との対談で、「阪神淡路大震災以後、観客が難解な作品を拒むようになった」と発言している。確かに、ここ20年ほどの観客の低レベル化は私も実感していることではあるが、その原因を震災による人々の現実逃避に求めるのは短絡的に過ぎるだろう。アニメーションの世界などでは、むしろ95年以降では難解な作品が増えているくらいで、それはもちろん大震災と同じ年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある。『エヴァ』を自作中に引用したこともある鴻上なら、その事実に気付いていないはずはない。観客が幼稚化したのは、鴻上の芝居が難解でも何でもなく、もともと幼稚だったためで、マトモな観客が呆れて次第に離れていったのは当然の結果だったと言えるだろう。言葉を装飾して小難しく見せかけたところで、所詮、「虚仮威し」は見透かされてしまうのである。
     鴻上の『朝日のような夕日をつれて'97』に、象徴的なシーンがある。既成の演劇を登場人物たちがマネをしてからかうシーンだが、「新劇病」「ミュージカル病」「小劇場病」などに続いて、平田オリザの現代口語演劇を「イギリス静かな演劇病」と称して演じてみせるのだ。皮肉なことに、これが役者たちの演技力が一番発揮されていて面白かったのだ。それまでの絶叫型演技が覆され、役者たちが接近し、普段の口調で喋るのだが、緊張感は倍増ししている。鴻上は平田オリザをからかったつもりで、自らの演出が平田の足元にも及ばないことを露呈してしまっていたのだった。

     90年代後半からの鴻上の凋落は、目も当てられないほどであった。
     熱狂的なファンでも、鴻上が映画畑に進出した『ジュリエット・ゲーム』や『青空に一番近い場所』の惨憺たる出来に茫然とした。90年代に入る頃から、「鴻上尚史って、実はただの馬鹿だったんだ」ということに気がついて、去っていった者が少なくなかったと思う。近作『恋愛戯曲』に至っては、映画、演劇界の双方で酷評ないしは黙殺と言った状況になってしまっている。

     私が、それでも「何か引っかかるもの」を感じて、鴻上作品を追いかけてきたのは、鴻上作品の底流にある“喪失感“、この正体は何なのだろうと気にかかっていたからだ。寡聞にして、私は商業演劇化する以前の、早稲田大学時代の第三舞台を知らなかった。旗揚げメンバーの一人、岩谷真哉が事故死していた事実を知らなかった。それを知ったのは、10年前の活動封印作『ファントム・ペイン』を観劇したあと、戯曲の後書きを読んだ時だった。
     鴻上の劇作の多くに、「失われた友」の影が、形を変え、さながら変奏曲を奏でるように描かれていく。『深呼吸する惑星』でも、冒頭は「葬儀」のシーンで始まり、放置されたままのブログ内の小説の話が語られ、そして幻想惑星アルテアで、神崎(筧利夫)は死んだ友(高橋一生)に出会う。それは確かに『ソラリス』からの引用ではあるが、同時に自作『天使は瞳を閉じて』や『トランス』などの変奏曲でもあるのだ。
     第三舞台にいる限り、鴻上は、帰ってこない友への思いから逃れることはできなかった。その「進歩の無さ」を、進歩がないゆえに批判することは簡単である。しかし、進歩ならざることがまさしく鴻上の「人間性」なのだ。理性として、鴻上作品が駄作のオンパレードであることはもっと指弾されなければならないだろう。しかし「情」においては、それはまた別の問題なのである。

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    2012/01/22 14:20

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  •  「無駄に長い」とはよく言われます(苦笑)。
     でもマトモに批評しようと思えば、原稿用紙10枚程度ではまだまだ不十分でしょう。一人一人の俳優の演技については、殆ど触れることが叶いませんでした。鴻上尚史の演技論についても、その著書を読む限り、実践的じゃないと疑問を抱いているのですが、具体的に批判する余裕がありませんでした。

     小劇場演劇が安易な笑いに走っている、というのは、私だけの実感ではなかろうと思います。20年ほど前、劇作家の岡部耕大さんが講演で「今の観客は笑いを入れないと満足しない。仕方なく笑いのシーンを入れている」と仰っていたことを覚えています。
     つかこうへいや野田秀樹は、決して「くすぐり」で場を繋ぐことはしていなかった。彼らの芝居でももちろん笑いの起きるシーンはありましたが、それは結果論的なもので、鴻上尚史のような押しつけがましさはなかったように記憶しています。
     つまらないギャグには白ける、というのが普通の客の姿勢でしょう。でも今の観客は、俳優が出てきただけで笑うことすらあります。そう言えば、ビートたけしが以前、漫才をしなくなっていった理由の一つとして、こんなことを言っていました。「何もしなくても、客を罵倒しても、あいつら笑ってやがるんだ」と。
     可笑しいから笑ってるんじゃないんです。笑いたいから笑ってるんです。こういう客ばかりなら、演劇は死んでいくばかりですが、そんな客ばかりにしてしまったのも、小劇場の担い手たち自身の責任なのです。

    2012/01/25 00:22

    Twitter で雲間さんのレビューのURLを載せたところ、結構な反響がありました。
    何より読ませる文章だからでしょうが、Twitter の短文レビューばかりが目立つ今、原稿用紙10枚近くになる長文は、逆に人目を引くというのもあるかもしれません。

    第三舞台の演劇界における「罪」にていてのご指摘は、特に興味を持ちました。「小劇場演劇に安易な笑いとベタな人情話を浸透させる結果」を招き、幾つかのカンパニーを挙げながら『「演劇って、この程度でいいんだ」という「極めて低いライン」』を生み出してしまったという所です。私が今の小劇場演劇に対して物足りなさを感じているのとはおそらく少し違う観点から状況を分析されていらっしゃるので、掘り下げた批評を読んでみたいと思いました。

    2012/01/23 22:47

     プロでも何でもありません。ただの一般客です。
     ただ、鴻上さんとは歳も近いので、時代的、文化的な背景をかなり共有しています。鴻上さんが何をやりたかったか、何をしてきたか、ある程度はリクツ抜きでピンと来るところがあります。
     私に限らず、同世代の映画ファン、演劇ファンは、みんなそうでしょう。私の意見や感想は必ずしも個人的なものとは言えません。
     80年代はサブカルチャーの「面白嗜好」の渦中にありました。当時、私は東京在住でしたが、垢抜けない街だった渋谷や吉祥寺が急激に若者の街に変貌していった時期です。
     文学もSFもミステリーもマンガもアニメも映画も演劇もファッションも、みんな「等価」に、貪欲に吸収、消費していました。
     そんな中で、第三舞台の演劇は確かに頭一つ、抜き出て見えました。だからこそ、90年代半ば以降、どんどん「時代遅れ」になっていく様子には、元ファンとしては哀しい思いを抱かざるを得なかったのでした。

     現在は九州在住なので、なかなか関東、関西の芝居を観に行くことは叶いません。DVDなどで、後追いで観てはいますが、やはり劇場に足を運んでこその演劇ですから、たまには上京してみたいと思っています。

    2012/01/22 20:52

    初めてコメントを差し上げます。
    長文のレビュー、読ませていただきました。自分は第三舞台の公演は観たことがないので、評価については判断できません。ただ、文学やアニメ、漫画の豊富な知識を背景に据えながら論点を明確にして、読ませるレビューに仕上げる文章力にとても関心してしまいました。
    プロの書き手としてどこかに書かれていらっしゃる方でしょうか?

    あと他のレビューを見る限りでは、九州で行われる公演にしか足を運ばれていらっしゃらないようですが、ぜひ東京で行われる公演もご覧になっていただけたらと、勝手に思ってしまいました(笑)。日本の現代演劇の中で、九州でも上演される公演はごく一部なので。

    今後ともレビューを楽しみにしています。

    2012/01/22 15:54

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