深呼吸する惑星 公演情報 深呼吸する惑星」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.2
1-8件 / 8件中
  • 満足度

    記念以上の意味はない
    ライブビューイングにて観劇。
    その為、前の人で見えない、音が聞き取れない、などの不満は全くなし。
    反面、当然ながら、舞台の空気を感じることはできなかった。

    作品のネタはありふれていてたいして面白くもない。
    他のカンパニーの舞台ならもっとうまい芝居ができる人も、下手な芝居を見せている。

    長年の記念。それ以上の意味を全く感じなかった。

  • 満足度★★★★

    最終ステージ
    いろいろあるけれども、最終ステージの場にいあわせたということ、その事実がもっとも大きな感想。
    ほんとうに、おつかれさまでした。

    ネタバレBOX

    最後のステージにいあわせなかった長年このカンパニーをウォッチした方へ、少しの申し訳なさを感じる。
  • 満足度

    残骸の底から
     第三舞台は80年代後半から90年代にかけて、演劇界において確かに天下を取った。しかし、第三舞台とは何だったのか、演劇界におけるその功罪は、と考えた時、罪の方がはるかに大きかったと判断せざるを得ない。未成熟なアダルトチルドレンの自己肯定(=甘え)を、それらしい社会的なテーマやキワモノ的なガジェットで粉飾して、傷つきぶりっこな観客に媚を売ってきた、結局はそれが第三舞台の正体ではなかったのか。
     90年代後半当りから、鴻上尚史の舞台に失望させられることが多くなっても、それでも先入観は捨てようと思って観劇した。だから冒頭のキレのよい“いつもの”ダンスパフォーマンスには、懐かしさも含めて好意的に観始めることができたのだ。しかし、期待感はすぐに失速する。陳腐で幼稚な物語、学生演劇特有の間を無視したデタラメな演技、ぐちゃぐちゃな場面転換、虚仮威しの照明、既製作品及び自分たちの過去作からのパクリ寸前の引用と、「演劇がやってはいけない」ことのオンパレード。
     しかし、かつて彼らと「同世代」だった我々が応援していたのは、そのデタラメさゆえにであった。新劇などの既製作品にない爆発的なエネルギーだったのだ。だから「これは本当はもの凄く下手くそでつまらないのではないか」と感じつつも、あえて旗を振ってきたのだ。しかしデタラメは結局デタラメでしかない。そのことに観客は次第に気付いていく。この20年あまりで、第三舞台のメッキはすっかり剥げてしまった。元のファンの多くは自らの不明を恥じつつ、彼らのステージから離れた。
     「時代の寵児」でしかなかったことを痛感しているのは鴻上尚史自身であろう。第三舞台から産み出される新しいものはもう何もない。第三舞台は変わらない。変わり続けもしなかった。解散公演は、みっともなくモダモダと愚作を発表し続けてきた鴻上の、最後の潔さだと言えるだろう。

    ネタバレBOX

     舞台となる惑星の名前が「アルテア」と聞いて、なんだ『禁断の惑星』のパクリかとガッカリしてしまった。「人間の意識が具現化する」という設定も全く同じ。もっともこれはSF作品にはよく見られる設定ではある。しかし既製作品のアイデアを借りるのであれば、そこに独自のアレンジを加えるのが作家としての矜持だろう。鴻上尚史にはそれがない。
     同じアイデアを元にしていても、フレドリック・ブラウン『プラセット』はスラップスティック・ギャグとして昇華させていたし、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽の下に』は哲学的深淵まで覗かせてくれていた。梶尾真治『黄泉がえり』はリリカルSFの一つの完成形を見せてくれもした。『深呼吸する惑星』は先行作のどれと比べてもはるかに劣っている。

     鴻上尚史がSFファンであることは、これまでの作品に「引用」されてきたキーワードから容易に理解できることであった。それこそ藤子・F・不二雄『ドラえもん』からフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』あたりまで、幅広い読書量を誇っている。『ドラえもん』に至っては、自身で舞台化までしたほどの入れ込みようだ。
     しかしそれらのSFガジェットは、戯曲自体のテーマと殆ど絡むことなく、単に「自分が好きだから作品に引用してみました」程度の意味しか持ってはいなかった。それはそうだろう。それ以上にSFの提唱するテーマを自らのものとして内省し、作品として昇華させる能力が鴻上にはなかったからである。
     柴幸男『わが星』が岸田戯曲賞を受賞した時、選考委員の中で鴻上だけが唯一「ワイルダー『わが町』のままではないのか」と受賞に反対した。しかし、鴻上がこれまで何をしてきたかを熟知している者には、彼の発言の裏が容易に理解できるはずである。『わが星』は確かにワイルダーやブラッドベリ『火星年代記』をベースにしてはいるが、その上に幾重にも柴自身のオリジナルアイデアを積み重ねている。鴻上の「引用」にはそれがない。鴻上は自らの劣等感から、柴に嫉妬したのだ。

     もともと、自作に好きな作品をこれでもかというほどに引用しパロディ化する手法は、80年代、吾妻ひでおやいしかわじゅんら「ニューウェーブ」の漫画家たちが好んで行っていた手法だ。文学畑では栗本薫が評論『文学の輪郭』や『エーリアン殺人事件』でそれを試みていたのだが、鴻上は演劇でそれを大々的にやって見せた。それだけのことである。
     ところが演劇界の人間は、昔から文学方面にこそ眼を向けてはいたが(稚拙な文学コンプレックスゆえであるが)、漫画やSF、それらを含めたサブカルチャーの動きにはとんと疎かった。だから「鴻上尚史が新しく見えた」のである。単なる模倣に過ぎない底の浅さに気がつかなかったのだ。
     『テアトロ』2月号では、小山内伸が『第三舞台、「深呼吸する惑星」までの30年』と題して、その活動を包括し賞賛している。しかし、そこで小山内氏が指摘する第三舞台の三つの特徴、「複数の世界を並行してゲーム的に描く」「一人の役者が状況に応じて即興的に別の役に早変わりしたりする入れ子構造」「日常や社会を戯画化する一方で、物語は虚実の反転を繰り返して核や深層に到達せず、あくまで状況をオータナティブに示す」などは、全て、“漫画の中で吾妻ひでおがとっくにやっていた”ことなのだった。

     それでも鴻上尚史と同世代である我々は、彼とそして第三舞台を支持した。その「罪」は、結果的に、小劇場演劇に安易な笑いとベタな人情話を浸透させる結果となってしまった。
     更なる第三舞台エピゴーネン、たとえば演劇集団キャラメルボックスや劇団☆新感線、ヨーロッパ企画といった劇団に至る、「演劇って、この程度でいいんだ」という「極めて低いライン」を産み出してしまったのだ。
     鴻上は、『深呼吸する惑星』のパンフレットの角田光代との対談で、「阪神淡路大震災以後、観客が難解な作品を拒むようになった」と発言している。確かに、ここ20年ほどの観客の低レベル化は私も実感していることではあるが、その原因を震災による人々の現実逃避に求めるのは短絡的に過ぎるだろう。アニメーションの世界などでは、むしろ95年以降では難解な作品が増えているくらいで、それはもちろん大震災と同じ年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある。『エヴァ』を自作中に引用したこともある鴻上なら、その事実に気付いていないはずはない。観客が幼稚化したのは、鴻上の芝居が難解でも何でもなく、もともと幼稚だったためで、マトモな観客が呆れて次第に離れていったのは当然の結果だったと言えるだろう。言葉を装飾して小難しく見せかけたところで、所詮、「虚仮威し」は見透かされてしまうのである。
     鴻上の『朝日のような夕日をつれて'97』に、象徴的なシーンがある。既成の演劇を登場人物たちがマネをしてからかうシーンだが、「新劇病」「ミュージカル病」「小劇場病」などに続いて、平田オリザの現代口語演劇を「イギリス静かな演劇病」と称して演じてみせるのだ。皮肉なことに、これが役者たちの演技力が一番発揮されていて面白かったのだ。それまでの絶叫型演技が覆され、役者たちが接近し、普段の口調で喋るのだが、緊張感は倍増ししている。鴻上は平田オリザをからかったつもりで、自らの演出が平田の足元にも及ばないことを露呈してしまっていたのだった。

     90年代後半からの鴻上の凋落は、目も当てられないほどであった。
     熱狂的なファンでも、鴻上が映画畑に進出した『ジュリエット・ゲーム』や『青空に一番近い場所』の惨憺たる出来に茫然とした。90年代に入る頃から、「鴻上尚史って、実はただの馬鹿だったんだ」ということに気がついて、去っていった者が少なくなかったと思う。近作『恋愛戯曲』に至っては、映画、演劇界の双方で酷評ないしは黙殺と言った状況になってしまっている。

     私が、それでも「何か引っかかるもの」を感じて、鴻上作品を追いかけてきたのは、鴻上作品の底流にある“喪失感“、この正体は何なのだろうと気にかかっていたからだ。寡聞にして、私は商業演劇化する以前の、早稲田大学時代の第三舞台を知らなかった。旗揚げメンバーの一人、岩谷真哉が事故死していた事実を知らなかった。それを知ったのは、10年前の活動封印作『ファントム・ペイン』を観劇したあと、戯曲の後書きを読んだ時だった。
     鴻上の劇作の多くに、「失われた友」の影が、形を変え、さながら変奏曲を奏でるように描かれていく。『深呼吸する惑星』でも、冒頭は「葬儀」のシーンで始まり、放置されたままのブログ内の小説の話が語られ、そして幻想惑星アルテアで、神崎(筧利夫)は死んだ友(高橋一生)に出会う。それは確かに『ソラリス』からの引用ではあるが、同時に自作『天使は瞳を閉じて』や『トランス』などの変奏曲でもあるのだ。
     第三舞台にいる限り、鴻上は、帰ってこない友への思いから逃れることはできなかった。その「進歩の無さ」を、進歩がないゆえに批判することは簡単である。しかし、進歩ならざることがまさしく鴻上の「人間性」なのだ。理性として、鴻上作品が駄作のオンパレードであることはもっと指弾されなければならないだろう。しかし「情」においては、それはまた別の問題なのである。
  • 満足度★★★

    ライブビューイングでしたが
    解散・千秋楽のライブ感は伝わりました。過去を見ていた方達の温かい拍手とかねぇ、舞台内容は優しくもちょっとユルイ話なので物凄いモノを見た!という作品ではありませんが、最後を見れた事に価値があったと思います。ブログの感想も体した事かけませんでしたし・・・

  • 止まない決まっているさ。
    もー
    手拍子がね。
    「緞帳あけたるでー!!」な意気込みがね。
    「もいっかい、出てきてもらうでー!!」な欲張りさんがね。
    解散公演の大千秋楽なのに、場内大爆笑で締めくくる。
    感極まって泣いている人も笑っている。

    どんなに辛いときでも、人間には娯楽が必要なのだと、改めて思った。

    カメラが入ってる事なんか忘れて友人と爆笑しながら役者陣とハイタッチ。
    楽しい思い出をありがとうございました。

  • 満足度★★★★★

    最初で最後
    もっと早くに見ておくのだったというのが素直な感想。
    こんなにインパクトのある舞台はイキウメ、キャラメルボックス以来。
    それも飽くまで私の個人的感想です。
    しょっぱなからのダンスというかあの動きは一気に物語に引きずり込んでくれる。
    見れてよかった。観れて幸せだった。

    ネタバレBOX

    入口にいた鴻上さんは思ったより小柄で普通の人だった。
    本は何冊か読ませていただいていたけど、本通りの優しい感じの
    演劇人でした。
  • プライスレス!最初で最後の第三舞台観劇!
    個人的には、非常に楽しめた!
    横浜の映画館で千秋楽を鑑賞。
    公演後、鴻上尚史氏から出演者全員の紹介があった。
    やっぱり千秋楽らしく、映画館でありながら拍手が沸いた。
    私は第三舞台観劇は初めてであったが、会場全体の高揚感から一緒に楽しめた!
    最初で最後の舞台なので、満足度の評価はしない。

    ネタバレBOX

    最後、映像で第三舞台の全公演名、第三舞台を作った人の名前が全員流れた。そして最後に「and you」という文字が。
    それを見て、隣の席の年配の女性が泣いていた。
    最後の舞台、観劇して良かった。
  • 満足度★★★★★

    大千秋楽 パブリックビューイング
    おおさか難波の映画館での観劇。衛星中継ということで見に来る人どれくらいいるかなと思いましたが満員でした。

    今回の公演、思い入れのまったくない人には物足りないものだろうと思います。ただ、思い入れのある人、とくに80年代からの、劇団と一緒に歳を重ねた人にとっては最高の舞台だったのでは。私はここ3年ほどの浅いファンですが、それでも解散公演として最高だった、これ以外にはないのではと思いました。

    鴻上さんの言葉、自分にとっては突き刺さるものが多いです。今年、鴻上さんの舞台に大高さんが出られるように、解散ですがまた鴻上さんの舞台に第三舞台出身の方が出られることを願っています。

    第三舞台、ありがとうございました。

    ネタバレBOX

    開演前。スクリーンの向こうに会場の最後列に立つ、ノートを持った鴻上さんが。今観ている人はツイッターでメッセージくださいとのこと。ツイートのあった場所を鴻上さんがノートに書いてくれます。全国で観ている人がいるのってあらためてすごいなと思いました。
    すべての公演が終わり、カーテンコール、鴻上さんによる役者紹介とあいさつも終わり、最後はスクリーンにエンドロール。第三舞台を作った(関わった)役者・スタッフの全員の名前が流れて行き、最後に「and you」。
    全員が一体となった公演だったと思います。
    でもそれでも鳴り続ける拍手に、最後は大高さんと鴻上さんが出てきて、「次に進むために終わることが大事」と。
    本当に良かった。中継がすべて終わった後、なんばの会場にも暖かい拍手がおこりました。

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