溶けるカフカ 公演情報 カトリ企画UR「溶けるカフカ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「孤独」に「福音」が降り注ぐ--「現在進行形」の未完
    カフカの小説から、再構成された舞台。
    台詞と演技と空間から、観客は「どのキー(鍵)」で読み解いていくのか。
    それが楽しみのひとつでもある

    ネタバレBOX

    「プロメテウス」「幽霊」「バベルの塔」など、短編小説のキーワードが聞こえてくる。
    ああ、これは、そういう「構成」の作品なのだと理解した。
    (つまり、地点の『――ところでアルトーさん、』 http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=17564 や『あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより-』 http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=12633 に似た感じな)
    さらに「変身」「審判」「城」のテキストも聞こえる。

    つまり、1つの方法として「カフカを(あるいはカフカの作品を)粗く削り出す」ということではないか、ということだ。
    「作品=カフカ」であるかどうかは別にして。


    さらに、それは「カフカを削り出す」ことで、「観客の中に何を生み出すのか」ということでもある。聞こえてくるキーワードと演技(動き)(空間)を通して、観客が「何をつかむのか」ということだ。
    作品としては、「観客との関係」があるということは当然だが。

    もちろん、「テキストを選び」「演出している」のだから、「何を知らせたいか(感じてほしいか」という、)「用意された作品(公演作品)の読み方」はあるのだろうが、それは観客の手元に届いた時点で変容するのは普通だ。

    今回の公演では、演技だけでなく、舞台となる場所が、「教会」である。さらに「震災被害の後」のような動画が、舞台後方に流れる。

    こうなると、「教会」は「鎮魂(の場)」として、床にばらまかれた「紙」は「瓦礫」に、「プロメテウス」や「バベルの塔」は、たちまち「近代化の歪みとその滅亡の象徴」となってくる。

    そういう「キー(鍵)」で読み解いていくことも可能だし、またそう読み解けていく。
    すべての(芸術)作品が、そういう「観客の持っているキー(鍵)」によって開かれていくものである。
    (あたり前すぎる話ですみません)

    カフカの不条理は、とても否定的な不条理という印象がある。
    理由もわからぬまま否定されてしまうということで。

    ここに「震災」を結び付けるのは当然だろう。

    舞台上でしつこく「繰り返される」演技やパターンにも、それが見て取れる。

    しかし、そこに見えて来るのは「疎外」と「孤独」だ。
    真面目そうな男と、それに絡む3人の男女たちは、最後まで誠実には交わっていかない。ちゃかすような、ふざけるような。
    さらに彼らたちも、実は一体感があるようでない。

    否定的な空気の中にいて、さらに常に自己否定されているような感覚が襲ってくる。
    そこには「絶望」は感じないが、「孤独」はある。

    舞台後方に流れている「災害後」とどこかの「街」(ニュータウンみたいな)の画像は、同じ空間に前後するのだが、交わっていかない。
    どちらが「前」で、どちらが「後」なのか、ということもある。
    つまり、「再生」なのか「滅亡」なのかは判然としないわけだ。

    しかも、その中に、なぜか「孤独」が見えてしまう。

    まあ、結局、それが「震災」というキーよりも、「私がこの作品の見るためのキー(鍵)」であったということなのだろう。

    今回の作品には、「鳥籠が鳥を捕えにでかけた」とある。そこがキーになったと言ってもいいだろう。
    「不在」「空白」そういうキー(ワード)だ。
    失ったモノを「求めて」なのだが、すべては「投げっぱなし」で「答え」などない。それがこの作品ではないだろうか。

    と、書いたが、本当は「宗教」が語られているのではないか、とも思ったのだ。
    それはつまり、祭壇にスピーカーが置いてあるのだ。何かの信仰の象徴のように、だ。
    音(楽)の出るところ(スピーカー)が、神の居るところ。
    そこから「音(楽)」が教会内部から外へと響く。

    まるで、「孤独」と「不在」と「空白」の地に、「福音」(音!)が響くようにだ。
    意図していたのかどうかはわからないが、実に「宗教的」。間違っているかもしれないが、「すべては神の思し召し」「神に包まれている」、がひとつの答え、今の答えなのかもしれない。

    そうなると、「場」が「舞台」と「観客」とに2分されていたことに違和感を感じてきた。
    それは、そこ(舞台)にあるのは、「展示物ではない」ということだ。「体験」であり、「今」なのだ。
    だから、「福音」はすべての人の上に降り注ぐべきであり、観客もカフカに溶けていくべきではないか。

    つまり、客席は、会場の隅に追いやるのではなく、会場全体に、デタラメに散りばめてあるべきではなかったか、と強く思った。

    まあ、この作品自体は、完成型ではなく、カフカの『城』や『審判』同様に「未完」というところではないだろうか。
    「現在進行形」の未完として。

    公演の内容として、付け加えるとすれば、とても良かったのは、ビジュアルだ。
    「画」として。

    この公演は、ビデオ収録していたが、「まさか役者のアップとか撮ってないだろうな」と思った。とにかく「引いた画」、視野を「常に」広くして、全体をいつも見ていたいということ。すべてのバランスが、つまり、「非常口」や「ピアノ」、「つり下がる電灯」、そして役者の「形」と後ろに映し出される画像のすべてが美しいのだ。
    インスタレーションってな感じでもある。
    それを、ぼーっと、見ているだけでも楽しい。

    あと役者の佇まいが面白かった。キャラが(本人の?)滲み出てくる。

    URという企画は期待したい。今回のように、(たぶん)重なり合うことのなさそうな、作・演と役者のコラボが楽しめそうなので。

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    2011/12/09 06:35

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